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仮名草子『名女情比』は近年、陳羿秀氏によって、作者を山雲子とする説(「山雲子の著作について」『近世文藝』99号掲載)が出されている。本書(五巻五冊)は、巻一から四まで日本古来の著名な女性の逸話が「情」を中心に並べられるが、巻五だけは「遊女情競」として、大磯の虎を除いて六人の当代の遊女の逸話が並べられているところに特徴を持つ。先駆作とされる『女郎花物語』(万治四年)と『本朝女鑑』(寛文元年)と重なる人物が多いが、各話、異なる視点から描かれている。本発表では、本書の娯楽を意図する特徴を示し、さらに本書の作者と特異な作られ方を提示したい。
本書の作者について、序文には「落葉堂の好色軒に筆を綾とり侍りぬ」とあり、これらの文言や類似する内容の作品から作者の推測がなされてきたが、『名女情比』の刊行の数ヵ月後、艶本『源氏御色遊』(延宝九年、二巻二冊)が刊行されており、その巻一の十二話中で九話が『名女情比』と逸話の内容もその表現も殆ど重なっている。両書が同一人の手になる可能性が高い。この『源氏御色遊』であるが、絵師は吉田半兵衛、作者署名はない。けれども『源氏御色遊』の作者について、艶本『好色床談義』(元禄二年)の「書林山の八自序」中で、自らの艶書の高い売れ行きを並べた中に本書名も記されており、京都の書肆山八の著した作であったことが判明する。『名女情比』の作者は、山八の可能性が強いといえよう。女性教訓書とされてきた『名女情比』が、各話の最後の僅かな部分を「性の結び付き」を寿ぐ文に変えることで艶本『源氏御色遊』に書き替えられていることから、本書の性格と意義を改めて論じたい。
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慶長九年刊『寿命院抄』を嚆矢として、『徒然草』注釈書が多く刊行され、いわゆる『徒然草』ブームが起こった。本発表は『徒然草』を漢訳した異種『蒙求』群を取りあげることにより、漢訳された『徒然草』の享受の具体相を分析し、近世以来の『徒然草』像の変遷について述べるものである。
唐李瀚撰『蒙求』は、江戸期に宋の徐子光新注により盛行したが、『蒙求』の意匠に倣った異種『蒙求』群も江戸期には多く作られた。先行研究によれば、現在日本で所在が確認できる異種『蒙求』は三十四種あるが、本発表はその中から漢訳『徒然草』が見られるもの十一種を抽出し、その叙述法や編纂意識を分析する。具体的には、近世期における『徒然草』の理解は教訓性重視の傾向が指摘されるが、初期の『本朝蒙求』(貞享三年刊)は『野 槌』等の『徒然草』注釈書を参照しつつも、奇話を選択する意図や先蹤に依拠しない文章表現が目立つ。対して、恩田維周『日本蒙求』以後は、『大東世語』(寛延三年刊)等の先行する類纂作品からの孫引きが目立つ。以上、異種『蒙求』を指標として見る漢文学における『徒然草』享受の様相は、初期は話の面白さを重んじ、後期は教訓性を重視するようになり、表現についても殆どが先行作品からの孫引きとなっていることがわかる。このことは、異種『蒙求』という指標を通して見えることではあるが、その背景には漢文世界の大衆化が機能し、それが『徒然草』享受相の変化をもたらしたと考える。
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本発表では、まず、承章サロンに出入りしていた野々口立圃の『十帖源氏』の挿絵をモチーフとし、詞書は道晃法親王・飛鳥井雅章ら堂上公家十人による寄合書きで構成される専修大学図書館所蔵『源氏物語画帖』(三巻、全六十図)について紹介したい。詞書と『十帖源氏』の本文を比較することで、詞書が青表紙本系統であり、和歌的・文化的な要素の強いことを説く。
次に、詞書筆者の筆跡、人物関係から本作の制作過程を推測する。詞書筆者と承章との関係性など、具体的に人物系図を用いて考察し、『徒然草画帖』『具慶本源氏物語画帖』の詞書の染筆者名が多く、筆跡も近いことから、承章サロンに出入りしていた中院通茂と日野弘資が総指揮をとり、一六七〇年前後に作成された可能性を指摘する。
最後に専修大学図書館所蔵『源氏物語画帖』の制作意図であるが、承章の記した『隔?記』によれば、発句のやり取りをしていた立圃から、俳諧指南役として立圃が長期滞在していた福山藩主水野家にまで及ぶ広い文化交流が窺える。承章の文化サロンを介して、本作が水野家の嫁入り道具の一つとして作成されたものである可能性が強いことを提示したい。そこから、江戸初期文人たちの交流の様相の一端を垣間見ることとしたい。
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貞門・談林期の俳諧短冊八〇四枚を収録する家蔵の短冊帖『誹諧短冊手鑑』雪・月・花の三帖については、『國語と國文学』平成二六年一月号収録の拙稿「『虚栗』の藤匂子」で概略を紹介し、『虚栗』を例にとってその資料的意義の一斑を示した。
その折にも触れたことであるが、野間光辰氏が昭和三三年の『連歌俳諧研究』一七号に紹介された古筆鑑定家九代了意が文政一一年に門人の集古斎秀之に書き与えたという「寛文比誹諧宗匠并素人名誉人」は、この手鑑の月・花の二帖をもとに作成したものであることが判って来た。手鑑各帖の題簽・内箱の題字・外箱の箱書きが古筆一〇代了伴の筆跡になることからして、三帖の手鑑は古筆鑑定の家に文字通りの手鑑として伝わったものと考えられ、了意がこれを見ていても何ら不思議はないのであるが、照合してみると誤読・誤脱が一〇〇箇所以上あることに驚かされる。半世紀以上拠るべき資料として使われて来た「寛文比名誉人」は、この手鑑によって正されねばならない。
が、それは「寛文比名誉人」の資料的価値がゼロになるということではない。何故なら了意筆写後に五〇点ほど短冊の貼り替えがあったからで、誤読・誤脱という難を孕むとはいえ、「寛文比名誉人」は現存手鑑よりも元姿に近いのである。
今回の発表では「寛文比名誉人」の典拠が『誹諧短冊手鑑』であったことを確認するとともに、手鑑元姿へのアプローチを試みる。
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『てには網引綱』は、栂井道敏によって明和七(一七七〇)年刊行されたてには指南書であり、今日では文法書として扱われる。その内容は、序文において旧来の出似葉語源説を否定するなど斬新さを感じさせるものである。また、旧来のてには書と、以降に刊行される『あゆひ抄』や『詞の玉の緒』を?ぐ転換点に立つ著作として評価されている。
『網引綱』は、俊成、荘子、『八雲御抄』「用意部」、顕注、近代諸注等、人物や書名などが示された上で、引用がなされている部分が、否定するために引用された部分も含め、多数存在する。その中でも際立つのは、「超嶽院殿の御説」、「不昧真院御説」として引用される見解である。超嶽院とは武者小路実陰で、不昧真院とは烏丸光栄であり、ともに霊元院歌壇で活躍した人物である。
本発表では、『網引綱』における引用のうち、「超嶽院殿の御説」、「不昧真院御説」に絞り、それぞれの引用が実陰の『詞林拾葉』や『烏丸光栄卿口授』から行ったことを確認しつつ、『網引綱』の論の構築について考察を加えたい。
『網引綱』において筆者は、自らの論をより明確にするため、最適な用例を選び採り、本文を執筆している。その用例を、歌の師であった武者小路家や烏丸家に関わる著作から、結果として多くを選び採った背景を明らかにしたい。
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鷲見安喜(安?)は天明四年(一七八四)に生まれ、弘化四年(一八四七)に没した国学者である。鳥取藩士であり、衣川長秋に師事し、和歌・国学研究に努めた。鷲見家では、安喜に限らず、父の保明も和歌を嗜んでおり、安喜は父の遺稿集として『鷲見翁歌集』をまとめている。この安喜については、山本嘉将氏『近世和歌史論』(昭和三十三年刊)などに紹介されるが、鷲見文庫全体にはあまり触れておらず、補足すべき事項が散見される。
鷲見文庫全体として見ると、歌書の他、古典籍、軍書など多岐に渡っており、現在、鳥取県立図書館、鳥取県立博物館、海上自衛隊第一術科学校、九州大学附属図書館、東洋大学附属図書館などにそれぞれ納められている。
この鷲見文庫について、鷲見文庫目録(仮)が存在する。ほかに、安喜の手控えである短冊収集のための国学者・歌人リストと、本居大平・衣川長秋・伴信友・加納諸平などの書簡を見ると、安喜はまずリストを作成し、収集を試みている。また、安喜に送られた書簡には、人物評も多く、どのような人物で和歌は「古風か当流か」が度々登場する。当時の人々が気にする話題であったが、安喜自身はそれにこだわらず、まずは広く集め、それぞれを知ることを目指していたのだろう。
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我が国図書館史に名高い林崎文庫に残る石碑の一つには、宣長が天明二年に著した「林崎のふみくらの詞」が刻まれている。文政十年、鈴門の殿村安守・三井高匡・長谷川元貞・小津久足によって建立され、碑文を書いたのは、幕府の右筆、屋代弘賢である。ただし碑文は「いひたかの郡の御民」という宣長の肩書を欠くなど、元の文といささか異なる。何故だろうか。
さて近年の篤胤研究は、気吹舎関係資料の調査によって格段の進歩を遂げたが、そこで発見された篤胤宛弘賢書簡から、鈴屋門人と弘賢を篤胤が仲介したことが明らかになった。そして「神の御末の民」という意味である「御民」という語が、幕藩制秩序を相対化する危険性を秘めていたために、幕臣たる弘賢がこの肩書に否定的で、石碑からも削除を望んだ、との旨が説かれるに至っている。とすれば本件は、近世後期の政事と文事の関係を考える上で、極めて興味深い例だということになろう。
そこで本報告では、関係資料に即して、この問題を再検討する。即ち、①碑文に削除の形跡は見えず、門人たちは最初からこの語を刻んでいないように思われる。②残された備忘録を見る限り、弘賢は自分の文案を勝手に改作したことに怒るとともに、宣長の「御民」の語を削らず書くほうがよいと考えている。③篤胤は久足に、弘賢案からの積極的な改作を指示する手紙を送っている。かくして、本件において宣長の「御民」称に否定的だったのは弘賢側だ、とする立場に、疑問が呈される。
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安政六年(一八五九)の七月に刊行された『枕山詩鈔』初編巻之上「丁酉」の項は「歳晩書懐。倣誠斎」と「展 先考竹渓先生墓。不堪追感、賦此述志」という二首の長編の古詩で結ばれている。この二首は枕山が二十一歳の天保九年(一八三七)第一詩集『房山集』に登載したものに推敲を加えて、収録したものである。いずれの詩も「無?石儲猶自若、経是堪炊史堪酌。史酌経炊朝復朝、未応餓死転溝壑」、「地下若有知、豈謂家克子。惟有詩癖同、家声誓不墜」(『枕山詩鈔』の本文に拠る)という警句を列ねて結ばれている。後者については永井荷風が「枕山はこの誓言に背かず決して家声を墜さなかつた。家声は枕山のために却て揚つたのである。わたしは若し枕山が無かつたならば其父竹渓の詩名は夙に忘られてしまつたと云ふを憚らない」というパセティックな評言を寄せた(『下谷叢話』初稿「下谷のはなし」)。
本発表では、菊池五山の門下にして、柏木如亭の詩学を継承した梁川星巌にも師事した枕山を改めて江湖詩社の後継者と規定する。次にその詩人としての出発期に詠ぜられた右の二作を含めた諸作品を検討する。その検討の成果を当時江戸詩壇に巻き起こりつつあった清新性霊派批判の機運と対比することで、詩人としての出発期に枕山が満腔の気概をこめていわゆる宋詩風を鍛え直す形で詩を詠じたことが、江戸詩壇の寵児たるその地位を確立せしめた経緯を追尋する。
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馬琴読本には数々の登場人物の死が描かれているが、そこでは儒教の仁義八行の徳目が、他の場面に比べてとりわけ強調されている。例えば『頼豪阿闍梨怪鼠伝』では、唐糸の謀略によって毒を飲まされ、死にかけている行氏夫婦を、義高が義仲に対する忠をもって讃えている。また、行氏夫婦の亡霊は、義仲に対する孝を理由に、義高が敵討ちを止めて祭祀を優先すべきだと主張する。この段は、『燕石雑志』の「鬼神論」において寃鬼を成仏させるために生者が祭祀をとり行うことの必要性を述べた箇所と、「鬼神余論」に引用している『論語』八?第三の「吾不与祭、如不祭」という成語を思い起こさせる。
また、『俊寛僧都嶋物語』において、黒居三郎の自害の原因が、息子亀王の忠・孝・義の徳目の欠如にあるとし、三郎の死をもって亀王の俊寛に対する罪が贖われ、この出来事が後の亀王の懺悔につながることが描かれている。さらに、『美濃旧衣八丈綺談』においては、親の悪行が原因となって木二郎が自害を決意するところで孝の徳目が強調されている。両者とも、仁義八行に起因した死の選択という設定が見られる場面である。
登場人物の死と仁義八行の徳目との密接な関係は、各作品の周辺人物の死の場面にも見出すことができる。このような周辺人物の死によって強調される仁義八行は、主要人物のそれ以後の行動に影響を及ぼし、物語が仁義八行に従った方向に展開するきっかけとなるのである。
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『本朝話者系図』は写本一冊、三代目三笑亭可楽を名乗る落語家によって記された落語家の師弟関係と略歴を記した系図であり、登載された人数はのべ六百人以上に及ぶ。本書は夙に『演芸資料館・紅編』(一九八二年六月、三一書房)においてその存在が紹介され、『落語系図』の粉本でもあり、他資料に見えない記述が含まれていることが知られていた。しかし個人蔵であることもあり、その後検討・議論される機会は多くなかった。この程、 本書の全貌を公開する目算がたったため、本発表ではこの『本朝話者系図』を改めて紹介し、その性格、記述内容の特色について報告したい。
本書の記述によれば、著者は二代目可楽を継いだ初代翁家さん馬の子である。その為もあってか初代三遊亭円生著『東都噺者師弟系図』、二代目船遊亭扇橋著『落語家奇奴類』といった同種の系図と比して可楽一門についての記述が豊富である他、幕末から明治初期における落語家の東西交流について多くの情報が含まれる。著者の可楽を初めとして、通説では代数に入らない落語家についての記述も貴重といえよう。また一方で、烏亭焉馬、桜川慈悲成など以外に二世柳亭種彦、東西庵南北といった人物も項目となっているなど、当時の落語家と戯作界との関連を考える上で興味深い記述も見られる。
これらの記述の検討を通し、幕末〜明治初期における落語家の社会的位置、芸と名跡に関する意識について考えていきたい。
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本発表では、京都の書肆吉田四郎右衛門の出版活動の実態を明らかにする。さらに、京都の歌人小沢蘆庵の門人としても知られる六代当主元長の動向を探ることで、近世後期の歌壇に書肆吉田四郎右衛門が与えた影響について考察する。
吉田四郎右衛門については、これまでその出自がよく分かっていなかったが、近年鍛治宏介氏によって、吉田家が書肆を営む一方、院雑色なる朝廷の下級役人を務めていたことが指摘された。歴代当主による出版活動の実態を調査した結果、約一六〇点確認される吉田四郎右衛門による出版物のうち、実際その約半数は六代元長によって刊行されていたことが分かった。
近世後期になると堂上と地下の勢力関係は逆転現象を起こし始めるが、とくに寛政期はその過渡期に位置付けられる。六代目元長は、そのような過渡期に当主として活躍した。彼の出版物や蘆庵社中との関わり方を見ると、元長が古学の伝播に、出版というメディアを通して関わっていた様子がうかがえるのである。前期吉田四郎右衛門は、院雑色という立場から朝廷の知を地下社会へと広げる回路としての役割を担っていたが、後期吉田四郎右衛門はその立場を両方向に活かし、堂上の知を地下社会へ広げるのみならず、地下の知を朝廷周辺へと拡散する役割を担っていたのである。とくに六代目元長による活動は、近世後期における堂上と地下の勢力図の書き換えに、少なからぬ影響を与えたものと考えられるのである。
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本発表では、二代目西村市郎右衛門と江戸出店西村源六の動向に着目し、二代目の江戸重視の経営戦略と源六店の誕生、江戸本屋仲間設立への関与の可能性などについて述べる。
初代西村市郎右衛門未達が没するのは元禄九年九月とされるが、同八年三月に西村九左衛門なる書肆が京都に登場する。二代目市郎右衛門に関しては、正徳から享保半頃まで登場する江戸の西村市郎右衛門が二代目となり帰京したとする説があるが(東明雅氏)、中嶋隆氏はそれが同名の新たな売捌き元である可能性を示唆し、九左衛門を二代目と推定された。管見では江戸の市郎右衛門と九左衛門は同一人物と見られ、二代目として正徳五年から享保十五年頃まで江戸に拠点を移して活動する。
九左衛門時代、江戸の西村半兵衛の下で修業を積んだと見られる二代目は江戸市場を重視し、宝永四年八月に鷺水の浮世草子『初音物語』を万屋清兵衛との相合で出版し、鷺水(団水)と連動した反八文字屋の動きを示すが、団水の死没(宝永八年正月)によって頓挫する。正徳五年に江戸に進出した二代目は享保四年に自店の同住所に源六店を「出店」として開業させる。享保六年、二代目は『官刻六諭衍義』の御用を勤めるとともに、源六は江戸本屋仲間の結成を奉行に願い出るが、享保十二年の南組の独立に際しては中絶していた「出店」表示を復活させる。
二代目西村市郎右衛門が江戸の本屋業界に及ぼした影響は、源六の活動とも相俟って看過できないものがあると言えよう。
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(C)日本近世文学会