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都賀庭鐘『英草紙』第六篇の典拠としては、従来「『青瑣高議』の「王幼玉記」、『喩世明言』の「衆名姫春風弔柳七」の一節」等が示されてきた。が、これらよりも『緑窗女史』が典拠としてより適切であると思われる。該書は明の秦淮寓客が編んだ類書で、全十四巻。『舶載書目』には日本に舶来した記録が見られぬものの、全国漢籍データベースによれば、明版唐本の伝本が尊経閣文庫、京都大学、大阪府立中之島図書館、内閣文庫、立命館大学に現存する。その巻十二「青楼」の部に王幼玉を含む歴代の名妓の話が収められている。
本発表では、まず第一話の「王幼玉記」を翻案した箇所について、『青瑣高議』やその他の類書に載る王幼玉の話と本文を比較対照し、庭鐘が直接依拠したテキストは『緑窗女史』であることを指摘する。例えば、「只寒中の花の未だ開けざる風情あり」に対応する箇所が『青瑣高議』等では「寒芳未吐」となっているのに対し、『緑窗女史』のみ「寒花未吐」とある。また、「入つては舅姑に事へ」という表現も、『青瑣高議』では「留事舅姑」、一方『緑窗女史』では「入則事舅姑」となっている。
さらに、これまで出典不明とされてきた第二・三話の原拠についても、『緑窗女史』巻十二「青楼」所収の「馬湘蘭伝」にあることを示したい。すなわち、庭鐘は馬湘蘭の人物像を檜垣と鄙路のそれに反映させ、また馬湘蘭にまつわる逸話を第二話と第三話に取り込んでいると見られる。
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上田秋成の二作目の浮世草子、『世間妾形気』に収められる遊 女藤野の話には、男が女に物を打ち明けかねる場面、話の転機 における海賊の存在、女が経を写す場面など、都賀庭鐘の『繁 野話』第八「江口の遊女薄情を憤りて珠玉を沈むる話」を想起さ せる箇所が散見する。しかし『繁野話』の白妙が安方に裏切ら れながらも、貞節を守るために入水して自ら命を絶ったのに対 し、『世間妾形気』の藤野は夫である才太郎の死を知った後も、 生きて遊女としての年季を勤めあげることを選ぶ。ここでの藤 野の決断は、『繁野話』の白妙とは対照的である。
上田秋成の後の作品には「烈女」と評される女がしばしば登 場する。貞節のために命を絶った『繁野話』の白妙が「烈女」にあ たるのに対し、藤野の選択は「烈女」のそれとはほど遠い。
話の終盤で、親方の岸屋は、夫の死を知り泣き惑う藤野を「女 ゴらしき人」と表現する。秋成の意図する「女ゴ」らしさとはど ういったものか。彼は後に『ますらを物語』で登場人物の言を借 り、「烈女」は「をみなしからぬもの」であると述べている。岸屋 の「女ゴらしき人」という言葉は、夫を一途に思い続ける藤野を 称賛するとともに、「烈女」である白妙のように貞節を守って死 を選ぶのではなく、遊女として身の「貞節」を擲ってでも、生き て亡き夫と主人への「義理」を全うする藤野の在り方を言い表 したものである。
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国文学研究資料館蔵『両総紀行』は、歌枕の旅に出ることを思 い立った二代目算木有政が、文化元年三月一〇日に下総国海上 郡成田村の自庵を出発し、同月一八日にかけて上総国武射郡屋 形村までの道中に住む知人達を訪問して回った際の紀行である。
『若樹文庫収得書目』は、この作品を大正四年に入手した大野 洒竹の旧蔵書で、「真顔自筆文化元年三月ノ紀行」とする。さら に昭和一一年一一月に文行堂主催古書入札交換会に出品され、 川瀬一馬によって落札されたことが、添付された備忘録から分 かる。会の時に付されていた野崎左文筆のたすきには、「真顔翁 両総紀行稿本 林若樹氏出品」とある。
本発表では、まずこの作品が二代目算木有政の作品であるこ とを確認し、行程及び内容から『常総庵有政陽炎日記』の冒頭部 分であることを明らかにする。次に行脚する狂歌師の地方にお ける活動実態が垣間見られるなど、その史料としての有用性を 明らかにする。一方で、旅立ちとそれに伴う回顧・惜別という 明確な主題があり、しかもその主題のために創作されたと思わ れる内容を含む、極めて文学的な作品であることを指摘する。 また、有政は後に荷田(羽倉)訓之を名乗り、荷田春満(蒼生子) の子孫の如く振る舞うが、周辺資料から詐称の可能性が高いこ とを明らかにし、本作品にその萌芽が見出せることを指摘する。
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文化十四年正月岩戸屋喜三郎刊『百物語長者万燈』(曲亭馬琴作、 勝川春亭画)という合巻の改題改刻本が、天保十五年正月菊屋幸 三郎刊『白鼠忠義物語』(曲亭馬琴作、歌川貞重画)という合巻であ る。両者の大きな相違点は四点ある。
まず第一は、『百物語長者万燈』という題を『白鼠忠義物語』に改 題したこと。第二の違いは画師が勝川春亭から歌川貞重に変更さ れたことに伴い、表紙画、挿画が改変されたこと。第三の違いは『百 物語長者万燈』が二巻六冊三十丁であるのに対して、『白鼠忠義物 語』は三巻六冊二十九丁という合巻としては変則的な体裁(普通は 五丁の倍数)であること。第四の違いは、改刻に当たって本文を 多少改変、削除したこと、という四点である。第二の『白鼠忠義 物語』の表紙がとても合巻の表紙とは思えないほど地味になって いることと、第三の『白鼠忠義物語』が全二十九丁という変則的な 体裁になってしまったことは、天保改革の影響をまともに受けた からであること、間違いない。
先般、これらの合巻のいずれかの草稿本と思われる「観潮閣文 庫」(森鴎外)「牽舟文庫」(森鴎外、あるいは弟森潤三郎)という 蔵書印が捺してある羽鳥孝明氏蔵の写本を寓目することを得た。 馬琴の筆跡ではないので、おそらく『白鼠忠義物語』の草稿本と考 えられるが、『百物語長者万燈』、草稿本、『白鼠忠義物語』の三本 を比較検討することによって、改題改刻本製作の際に必然的に起 こる変化について見てみる。
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中川喜雲の著した『私可多咄』は、初期の噺本として重要であ るが、万治二年九月の上方版は所在不明で、寛文十一年の江戸 鱗形屋版のみが現存する。その書名は、後年の元禄頃隆盛を迎 えることとなる「仕形咄」(ト書き風の説明を省略し、身振りを 交えて表現する一人芝居的な話芸)を意味するものの、内容的 にはその要素が希薄であると従来指摘されている。
山東京伝『骨董集』が引用する上方版の一部と、該当する江戸 版の本文との間には看過しがたい異同がある。さらに、万治二 年九月の書写奥書を持つ『徳元玄札両吟百韻』(天理図書館蔵) は、尾張鳴海の富豪俳人、下里知足の自筆で、表題の百韻の外 に、俳諧・和歌・笑話・書籍目録等を含む雑記であるが、同書 に引く笑話四十二話のうち、四十一話が江戸版『私可多咄』の内 容に共通し、しかも大きな異同がある。『徳元玄札両吟百韻』所 収話は、江戸版に比してト書きが極端に少なく、成立時期より 見ても、失われた上方版『私可多咄』より抄出したものと推定さ れる。
一般に、近世前期における上方咄本の江戸重版では、話の追 加や削除、文辞の変更を行うことがある。上方版『私可多咄』は、 当時の仕形咄の世界を写実的に文章化した書であったが、江戸 ではその試みが理解されずに本文が改変されたと考えられる。 すなわち、上方版『私可多咄』は、書名にふさわしい文学的先進 性を有した可能性がある。
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寛永十七年に起きた浅草慶養寺における伊丹右京・舟川采女 両名の自刃という実事件に取材した作品が、『藻屑物語』および その異本とされる『雨夜物語』である。この二作品は写本でのみ 伝わっているが、山の八『風流嵯峨紅葉』や石川流宣『好色江戸 むらさき』、西鶴『男色大鑑』、作者不詳『男色義理物語』等、本 文の剽窃を含んだ多くの影響作品がみられる。一方、本作につ いての研究は少なく、『藻屑物語』のテキストとしては、早大蔵 馬琴筆写本が主に用いられてきた。
しかしながら、現存する『藻屑物語』六部『雨夜物語』三部を校 合した結果、この早大本を『藻屑物語』の代表的テキストとする ことには問題があるという結論にいたった。管見の『藻屑物語』 六部の写本のうち、早大本・東大本・吉田幸一氏旧蔵本の三部 (A群)は、前書の内容及び本文の比較から、東大本に写された 天明五年筆写本以前には書写時期を遡ることができないこと がわかった。残る神宮文庫本・中之島図書館本・筑波大本の 三部(B群)は、このA群の写本とは異同が多く、むしろ『雨夜 物語』に近い本文をもつ。だがB群の写本には、A群にも『雨夜 物語』にも含まれていない叙述が存在する。元禄十六年刊の『男 色義理物語』がその部分を含めて、B群の本文をほぼ全文にわ たって剽窃していることから、B群の写本こそが、祖本に近い 『藻屑物語』であると考える。
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『俳諧女歌仙』は貞享元年に刊行された西鶴自画自筆本であ る。現在まで姿絵の一部の研究がわずかにあるものの、その成 立や編纂様式には、あまり言及されてこなかった。岡本勝氏の 「『古今俳諧女歌仙』の挿絵」(『近世文学論叢』所収・二〇〇九) では『新女歌仙』『続女歌仙』(寛文元年)との類似が指摘された が、本発表では両書よりも菱川師宣の『団扇絵づくし』(天和二 年)に、前書きと姿絵の類似があることを指摘する。『西鶴諸国 はなし』(貞享二年刊)には、師宣画の影響が指摘されてきたが、 『俳諧女歌仙』成立においても師宣作品の影響が認められるな らば、「(『女歌仙』を)手本にしてよりかかった形で作り上げた」 とする岡本氏の論を再考する必要がある。
また、本作品の姿絵に施された花模様には『好色一代男』と 『高名集』に全く同じ図柄が見え、この花模様は天和二年に西鶴 が好んで描いたと見える。このことから、本作品の成立時期は 刊行年を遡って、前述二作と近い時期に描かれた可能性が高 い。さらに、『俳諧女歌仙』に収められた作者の他作品における 入集状況を調査した結果、どの俳書にも署名が無く西鶴の生存 期間よりもかなり前に存在した人物が見える他、実在した事実 さえ怪しい作者を数名含む。本作品は西鶴の創作による作句や 人物が混在すると推察される。
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元禄七年九月九日に奈良で詠まれた芭蕉発句、
菊の香やな良には古き仏達 (『笈日記』)
は、旅程などから見て、奈良の仏像群を拝観しての作ではあり えない。これは、『和漢朗詠集』所収「阿耨多羅三藐三菩提の仏 たちわがたつ杣に冥加あらせたまへ/伝教大師」の歌を背景に して解釈すべきである。この歌は、酒呑童子物の室町物語や能 に取り込まれて広まった。さらには、『俳諧類船集』に「我立杣」 の項目があり付合語として「仏たち」が登録されているなど、近 世初期俳諧におけるさかんな利用が確認できる。そうした見地 から「今日は重陽、菊の節句。折から奈良の町には菊の香が漂っ ている。伝教大師が比叡山で『冥加』を求めた『仏達』と同じよう に、目には見えなくとも、きっと、奈良の町には古き『仏達』が おわして町を守護しているのであろう。菊の香は、この奈良の 町に『仏達』がおわしますことを示しているかのようだ」と、芭 蕉の発句を解釈することを提案する。
なお、芭蕉がこの年「な良の旧都の重陽をかけんと」(『笈日 記』)したのには、前年十月九日の素堂亭における「菊園之遊」の 雅会の影響があったと思われる。芭蕉は素堂の影響の下に重陽 の味わいを認識し、元禄七年の重陽を迎えるにふさわしい場 所として「旧都」である奈良を選んだ。また、奈良に関わる芭蕉 の詠作を見わたすと、何よりもまず奈良の古雅な〈町並み〉をこ そ、賞美する傾向が認められるのである。
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本発表では、『本朝二十不孝』の中で「唯一のモデル明示の章」 と指摘されている巻二の一「我と身を焦がす釜が淵」を検討す る。この話では、子・父・盗賊としての三つの側面から独自の 石川五右衛門像が提示されているが、はじめに、これまであま り注目されることのなかった、「盗跖・長範」に勝る盗賊と記さ れている点を検討する。
まず五右衛門の仲間の名を列挙する趣向と謡曲『熊坂』、幸若 舞曲『烏帽子折』との関連を明らかにする。また、「盗跖」の名か ら想起される、『荘子』雑篇・盗跖第二十九、すなわち「孔子の 倒れ」のエピソードと本話の五太夫の異見の場面を関連させつ つ論じる。この盗跖第二十九の日本における受容史を視野に入 れ、特に『宇治拾遺物語』最終話に注目して本話を解釈すること で、本話における観衆の反応の独自性と五太夫の異見の両義性 (子への心配/不道徳)が浮かび上がることを示したい。
その上で、処刑の場面における観衆を松本治太夫正本『石川 五右衛門』とは対照的に五右衛門を嘲笑するものとしたこと が、かえって「五右衛門の実子への一抹の愛情」という読みを捨 象しがたくさせている点を検討し、併せて大悪人石川五右衛門 とその被害を受けた父親という構図を再考したい。
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『波那乃枝折』と題された近代写本(発表者架蔵)の中に、神田 神社神主芝崎好安(好高)亭において享保十年三月二十二日に 催された新出の歌会記録が収められている。芝崎家は荷田春満 の江戸滞在中の強力な後援者であったが、当該歌会には同家を はじめとする神田神社社家の面々に加えて、江戸小石川御薬園 預にして中院通茂門の江戸堂上派歌人芥川元風、水戸藩医で? 園派詩人とも交渉のある吉田慎斎、書家で成島信遍とも親しい 曹洞宗の東湖和尚らの名が見える。近時、調査が進んでいる東 丸神社所蔵資料中にも上記の人名が確認されることから、彼ら は神田神社を拠点のひとつとして春満らと共に雅交に興じて いた集団と目される。
本発表では、彼ら春満門弟ないしその周辺人物のうち、絵入 教訓書『君臣和合物語』(享保三年刊)及び『茗荷艸』(享保十五 年刊)、法帖兼漢詩集『和寒山詩』(元文四年刊)等の著作がある 東湖和尚に焦点をあて、松風也軒撰『今代和歌渚の松』(寛延元 年刊)に春満や東湖らの和歌が収録されていることなどを手掛 かりに、東湖の伝記と交友圏の広がりを解明する。
更にそのことを通じて、従来江戸での古学発祥の拠点と捉え られてきた神田神社という場を、享保期前後に江戸堂上派歌人 と春満一門とが近接していた場として捉え返すことで、江戸歌 壇史における真淵登場前夜の実態解明を試みたい。
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文人の嗜むべき「琴棋書画」の一つに数えられる七絃琴が、奈 良時代に中国より伝来して平安貴族の間でもてはやされ、後に 衰退して伝承を失ったが、江戸初期に明僧東皐心越が来日した ことにより再興を見たことは、周知のとおりである。
江戸時代に琴を嗜んだ者は数多く、その身分もさまざまであ る。したがって同じく心越の伝えた明代琴楽に対する彼らの認 識と受容態度は、必ずしも一様ではなく、それはまた各人が生 きた時代の潮流及び彼らが信奉した学問・思想体系とも密接に 関わる問題である。しかし昨今の学界において、琴学そのもの に対する研究自体まだ活発に行われているとは言い難く、琴学 の受容を近世の学術の動向の中で考える視点も著しく欠けてい ると言わざるを得ない。
そこで、本発表では、琴学受容史において重要な意味をもつ 三人の人物を中心に、彼らによる琴学受容を当時の時代背景及 びそれぞれの学問体系の文脈の中で論じることを試みる。少し 具体的に述べれば、まず江戸前期の人見竹洞については、その 琴学受容に儒仏道の三教一致への是認が認められること、また 中国の琴学はかなり屈折した形で近世日本に受け入れられたが、 そのきっかけをつくった一人が竹洞であることに注目し、江戸 中期の荻生徂徠については、その琴学専論とも言うべき『琴学大 意抄』がどのような経緯と意図のもとに著されたかを論じ、さら に江戸後期の村井琴山については、その実学思想が琴学受容に 与えた影響について論じることを通して、そこから見えて来る 近世日本の学術の展開を読み取ることを目的とする。
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三重県津市にある「公益財団法人石水博物館」は、川喜田家 十六代当主半泥子が、昭和五年に千歳山の邸宅内に設立したも の。川喜田家は津を根拠地に江戸・京に店を構えて木綿問屋を 営んだ伊勢商人である。八代久太夫政美までは本業に励み、基 礎を固めたが、九代久太夫光盛(爾然斎)以降は、本業の傍ら文 芸活動にも力を注いだ。歴代各々が自らの興味に従って、和歌、 俳諧、国学、茶道、本草学などに勤しみ、資料の収集にも力を 注ぎ、後継者がこれを継承・保管することに努めた。近代に到っ ても、十六代半泥子の陶芸、松坂の長井家の演劇資料の買い取 りなどその活動は衰えなかった。本業の商業資料を含め、歴代 当主の収集、制作したあらゆる方面に亘る資料が、石水博物館 に収められている。文芸関係資料については故岡本勝氏がその 全貌を把握すべく、目録作成を目指して調査を続けておられた が、今回、私が代表者となり「江戸時代伊勢商人の文芸活動の 研究ー石水博物館(津市)所蔵文献資料を手がかりに」の課題で 平成21?24年度科学研究費補助金(基盤研究B)を受け、近世文 化の担い手であった豪商の足跡、特に伊勢を拠点に東西の文化 に拘わった川喜田家の活動という視点で、石水博物館の所蔵資 料の調査・研究を行い、馬琴の新出著作をはじめとする近世及 び中世・中古に及ぶ文学芸能の新出資料が確認され、一部は公 刊、報告した。資料は膨大で未だ全貌を把握するに至っていな いが、所蔵資料の特性を中心にお話しをしたい。
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(C)日本近世文学会