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先行作を利用する草双紙はダイジェスト版と位置づけられることが多く、利用方法は明らかにされるも、その制作の有り様についてはあまり言及されてこなかった。本発表では、『久米豊勝彼岸桜』という草双紙の手法を検証することで、典拠提示や簡略化の方法だけではない作品内容に対する評価を行う。
青本『久米豊勝彼岸桜』(宝暦十二年)は、富川房信による作品で、古浄瑠璃「天王寺彼岸中日」を利用して作られている。『久米豊勝彼岸桜』の手法について検証を行ったところ、「天王寺彼岸中日」を利用しつつも、大胆な省略を可能にする緻密な改変や登場人物の性格を強調する独自のプロット等の創意工夫がなされていることが判明した。例えば、熊太郎が悪人であることを表現するために新たに設けられた密談場面などである。これらの手法が、本作にダイジェスト版に留まらない場面展開を成り立たせ、房信特有の世界が見られる作品へと昇華させている。また、初代市村亀蔵の話題を取り入れ、同時代性を盛り込んでいることも確認できた。本作は一つの草双紙作品として明らかに房信の意図を以て制作された点が評価される。
房信の評価は、『金々先生栄花夢』の先行作家であることに留まりがちである。しかし房信作品の研究によって、黄表紙の成立や発展といった草双紙のあり方を追究することができると考えている。そのためには、個々の作品に対する評価を集積させていく必要がある。本考察は、その一つとなる。
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『女源氏教訓鑑』は正徳三年に刊行された女子用往来である。二十三本の原本が現存し、寛政八年まで改板と求板を経て七回板行、文政期まで販売されたことが確認できる。前付に近江八景に紫式部源氏物語執筆図を描き込む「石山近江八景」、本文に「源氏物語之大意」、場面絵に散らし書きで巻名歌を記す「源氏六十帖目録并に本哥五十四首」、梗概「源氏六十帖注釈」を収める。往来物のスタイルとしては、前付や頭書には人々が求めたであろう種々の「知」が本文とは別に盛り込まれる性格がある。源氏物語の「知」については、先行の絵入本や注釈書を踏まえて『女源氏教訓鑑』がその基本的な要素や形式を作り出し、後続の女子用往来はそれらを踏まえて継承・展開していったと考えられる。
この「知」はいかに活用されたのか。本発表では、その具体的一事例として、本書と草双紙との関わりについて報告する。
本書の紫式部源氏物語執筆図や五十四帖各巻の場面絵は、黒本『新/板 紫式部』(延享四年)、青本形態絵本『源氏』(刊年不明)の典拠と判断できる。従来両書の典拠は『絵入源氏物語』等の絵入本に求められた。しかし、むしろ『女源氏教訓鑑』が生み出した源氏物語の「知」の形が後続する女子用往来と共に読者に共有され、草双紙作者はその形を用いて源氏物語を作品に盛り込み、読者に想起させ得たと考えられる。つまり、往来物が源氏物語の「知」の橋渡し役として機能し、かつ典拠として草双紙作品の土台を支えたといえるのである。
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花散里巻には光源氏が対面した相手を「女御」とする箇所が二箇所ある。「女御」とある以上麗景殿女御と解釈せざるを得ないが、すると花散里を三君とする松風巻以降と齟齬が生じる。そこで、この巻の花散里を二人が住む住まいを指すと解釈するのが現代では一般的である。
藤本孝一氏の御教示によると、大島本の「女御」とある部分はいずれも、当初は「女」であったが「女御」に改変されたという。当初の大島本に従うと花散里は三君を指すことになる。
『岷江入楚』は花散里巻の巻頭に「三君ハ花散里也」と記す。これは『細流抄』『明星抄』など近い時代の先行する注釈書とは異なるが、当初の大島本に基づく解釈と一致する。また『袖鏡』(九州大学附属図書館細川文庫蔵)も、花散里巻に「三の君を花ちる里と申」と記す。同書は『在九州国文資料影印叢書』の解説(田坂憲二氏執筆)によると「近世初期頃の字」であり、「源氏大鏡」の「二類本諸本と異質な部分を多く含む」という。
大島本の当初の本文・『岷江入楚』・『袖鏡』に基づいて解釈すると、花散里は花散里巻から一貫して三君を指すことになる。
こうした現代とは異なる解釈は、どのように継承されたのであろうか。本発表では、これらの資料を三条西家において継承された源氏学と合わせて考察することにより、花散里を三君とする解釈の背景について検討を加えたい。
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『すずみぐさ』は、明和八年六月頃、建部綾足五十三歳の時に書かれた。しかしその出版は、没後二十年を経た寛政六年十二月である。本書に板本と写本の双方が伝わることは『国書総目録』等から知られていたが、その実際、特に写本については従来明らかであったと言いがたい。
本書出版の背景は、板本『すずみぐさ』の伴蒿蹊による序、また叢桂堂(梅村宗五郎)による跋から知られる。それによれば、板本『すずみぐさ』は、書肆の求めに応じ、伴蒿蹊が綾足の草稿を一部編集したものであり、和文全一〇九章の後に続く「附録」(和文実作のための古語の語彙集)部分には一部省略された項目もあるという。
管見に入った写本には二冊本と三冊本とがあるが、両者の大きな違いはこの「附録」部分の有無である。「附録」を有する三冊本『すずみぐさ』には、省略されたとされる項目(「提し燭の袋」「腐せる豆」など)が欠くことなく立項される。このことより三冊本は、板本の草稿に近い姿を持つと考えられる。三冊本二点のうち一点(宮内庁書陵部本、黒川真道旧蔵)は越智魚臣手沢本であり、また一点(京都大学文学研究科図書館本、大野洒竹旧蔵)は「附録」部分が別筆と考えられる。
「附録」以外の本文異同を含め、板本及び写本の状況を可能な限り明らかにし、『すずみぐさ』の成立と受容について考える手がかりとしたい。
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上田秋成の『春雨物語』「目ひとつの神」は、応仁の乱後の荒廃した時代を背景として、相模国の浦人が歌道を志し上京するが、近江国なる老曽杜の古びた社頭で目ひとつの神たちと邂逅し、上京の志を諦めての帰郷を諭される物語である。
本論では、社頭で浦人の眼前に現れる世界が、『日本書紀』などに見られる「猿田彦の神代」を彷彿とさせるように書かれつつ、構造としては『太平記』巻第二十七「雲景未来記事」などに見られる、天狗達が語る「未来記」の枠組みに依拠していることを指摘する。更には「未来記」と類似した構造を有し、『雨月物語』「仏法僧」などの典拠として指摘されている『剪灯新話』「富貴発跡司志」や、それの翻案である林義端の『玉くしげ』巻七「白髭明神」との関係についても言及する。特に後者は、物語の舞台が近江国の白髭神社であり、その祭神が猿田彦大神であることから、本話の着想の源泉となる作品であることを指摘する。
また、社頭での、目ひとつの神から浦人への発言では、都の歌学の現状と、独学の奨励が説かれる。その発言は「富貴発跡司志」の「判官」や「白髭明神」の諸国の神の報告を踏襲したものであるが、一方で秋成の学問的な経験と晩年の心性が色濃く反映されている。先行作品を枠組みとして、自己の経験をそこに重ねつつ相対化し、作品を再構築する方法が、「目ひとつの神」の物がたりの方法であった。
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『雨月物語』「吉備津の釜」が『剪燈新話』「牡丹灯記」に拠っていることは周知のことである。亡霊から身を守るために戸口という戸口に「朱符」を貼って引き籠もったという記述も「牡丹灯記」に拠る。しかし、正太郎が切望した忌明け直前、磯良が正太郎をおびき出した不思議な光については、未だ典拠が明らかにされていない。一体、あの光は何か。
本発表では、秋成の国学上の弟子である池永秦良が天鬻の名で出版した『占夢早考』(寛政七)を足掛かりに、中西敬房著『夢卜輯要指南』(宝暦四)が典拠の一つである可能性について論じたい。『雨月物語』「夢応の鯉魚」の「夢応」なる語は従来、本作以前の用例が見出されていないが、『夢卜輯要指南』中の「解夢尅応篇」に「解夢応遅速」として立項されていることも、秋成が本書を参考にした可能性を示唆する。
さらに考えを進め、当時の読者にとって、この結末部分の当代性とはいかなるものであったかを考察する。陰陽師が正太郎に与えた「朱符」から、当時の読者は何を連想したであろうか。この点について、大阪府交田の天の川沿いにある星田妙見堂や、兵庫県能勢妙見山における調査の結果を報告し、妙見信仰、および近世における新興の宗教と目される「太上神仙鎮宅霊符神」との関わりを想定したい。
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中本型読本の一体として発生した人情本であるが、文政期は模索期とみなされており(中村幸彦氏)、さまざまな作風が登場した。洒落本と人情本との関わりは、諸先学によって種々指摘されているが、文政期の人情本と洒落本の関係性を明らかにすることは、模索期人情本の理解を深めることに繋がるのではないかと思う。
そのために先ず取り上げるのは「泣本」という語である。泣本とは、春水が自分たちの作品の呼称として用いたというのが通説(岩波古典文学大辞典・棚橋正博氏)だが、用例の検討から、文政の中頃までは、末期洒落本を指していたのではないかという見方を提示したい。これが認められると、当時末期洒落本人気が高まっていたという事実が浮かび上がってくる。春水はこの流行に乗じたり時に敢えて逆らったりもしながら、著作を行った。具体例として『仮宅文章』・『仮名佐話文庫』などがあげられる。加えて、文政中頃から色恋の場面を描くようになっていくことも関連することとして指摘したい。
次に、出版活動に目をやると、『洒落本大成』に指摘されるように、『奇(き)談(だん)婦(ふ)足(たり)禿(かむろ)』・『当世虎之巻』など春水の関わる出板が相次ぐ。『当世虎之巻』は春水によって嗣作され好評を博した人情本であるが、一九作洒落本『鄽(さとの)意気地(いきじ)』も同様に嗣作による人情本化がなされていることを報告し、従来判然としなかった文政十年鼻山人『鄽意気地』を泣本流行と春水の出版活動の中に位置付けたい。
以上をもって、春水が洒落本を強く意識していたと結論づけるものである 。
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大田南畝の新出自筆資料三点を提示し、今後の研究の基礎とする。
『大田南畝全集』(岩波書店)第二十巻収録の『親類書』は、文化元年成のものに基づいて作成されている。
今回、津の石水博物館で、川喜田家十六代当主半泥子が収集していた文化九年成の南畝自筆『親類書』を発見できた。従来知られていた文化元年成『親類書』の内容を補うことができ、貴重である。
また、『大田南畝全集』第二巻は、「狂歌・狂文・狂詩のうち、特に未刊稿本類」を全十一編収めているが、「五編の自筆本を揃え得たにとどまり、他の六編は転写本等をもって底本とせざるを得なかった」とする。「転写本等をもって底本」としたもののうち、狂歌集『放歌集』『あやめ草』は、転写本すらそれぞれ伝本が一本しかなく、そのため校合ができず、誤写や脱落と思われる箇所の校訂もままならなかった。
石水博物館において、半泥子が収集していた南畝自筆稿本『放歌集』『あやめ草』の存在も確認できた。二書は、蔵書印「大田氏蔵書」「南畝文庫」が押されている南畝旧蔵書であり、筆跡も他の南畝自筆資料と比較検証したが、自筆で間違いない。第一次資料といえるこの二書の出現によって、@転写に由来する誤写および脱落の解決、A推敲過程の把握、B新出狂歌の増加、という成果がえられる。
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このたび、蕪村がライバル視した京の俳人、五升庵蝶夢の全集を編纂した。そこで得られた知見の随一は、蝶夢の俳論の先進性ということである。
蝶夢の俳論は、美濃派・伊勢派の俳論を継承発展させたものだが、作者の内発的感情を著しく尊重する点において、美濃派等の俳論を抜きん出て特異である。これは作者の主体的な在り方を重視する点において、所属俳壇の転換という伝記的事実、伝書の受動的受容の否定といった旧習拒否の姿勢、そして超流派の全国俳壇統一(蕉風復興運動)を提唱し強く牽引した社会活動の在り方と軌を一にしている。
このような、俳論その他に見る蝶夢の革新的言行は、すでに明和度前期に顕れていた。とするなら、安永・天明・寛政の文芸全般にかなりの影響があったことを考慮せずばなるまい。当代の代表的な歌人・詩人との交流もきわめて密だったからである。
また、明和度前期の顕現ということで、中野三敏氏の説く陽明学左派による思想的影響の可能性についても、目配りを要する。
最後に、蝶夢の俳論を日本詩歌史の中に史的に位置づける試みを、仮説として提示したい。
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(C)日本近世文学会