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日本の近世(江戸時代)は、隣国*朝鮮では朝鮮時代後期にあたる。この時代、両国ともに永く影響を受けてきた中華文明から徐々に離脱し、学問・文化・文学・芸術並びに農業・商業において飛躍的な発展を遂げた時代であった。ただ両国がともに海禁策をとったため、直接的な交流、特に人的な交流は、必ずしも活発ではなかったが、文物の交流は様々な形で行われ、相互に影響を与えあった。ところが、従来の日本近世文学研究では、中国との関係については盛んに議論されてきたものの、朝鮮についてはほぼ等閑視されてきたと言ってよい。これは現在の韓国においても同様で、朝鮮時代の比較文学研究は専ら韓中関係が中心であった(大谷森繁「朝鮮と日本に於ける明・清小説受容の様相と特色」『朝鮮文学論叢』所収など)。本シンポジウムでは、こうした歴史を見直す契機とすべく、日本近世文学と朝鮮の関係を洗い直すこととする。とはいえ、漫然と比較をする愚を避けるべく、幾つかの重要な問題に焦点を当ててみた。具体的には以下四氏の発表要旨を参照されたいが、これら個別の問題の検討は当然全体の問題へと波及するであろう。本シンポジウムを通じて、会員諸氏がそれぞれの朝鮮認識を見直すとともに、新たな日朝文学研究の胎動を感じ取っていただく機会になればと願う次第である。
*現、大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国の治世下にある地域・海域を、日本からどう呼称すべきか、様々に議論があり統一をみない。本シンポジウムでは、近世(江戸時代)の隣国への呼称が、多く「朝鮮」であり、また同時代、隣国が朝鮮王朝の統治下であったことを考え「朝鮮」と呼ぶことで統一する。なお現代の問題に言及する場合に限って「韓国」「北朝鮮」を使用することにする。
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暫く前までの韓国における日本文学研究の現状は、崔官氏「韓国における日本文学研究の近況」(『文学・語学』百九十号、二〇〇八年三月号)に明らかであるが、近世文学に限っても、その後、更に成果が上っており、一九八六年に韓国外国語大学校大学院に出講した頃を思うと隔世の感がある。本発表では、日本語で発表された業績を中心に、その成果の意義と問題点を以下二つの視点から展望したい。
・日本近世文学研究に寄与した、韓国人ならではの研究。先ず指を屈すべきは、崔官氏『文禄・慶長の役』(一九九四年、講談社刊)である。例えば、近松門左衛門作浄瑠璃「本朝三国志」に登場する牧司判官が牧使(地方行政官)金時敏に由来する等、数々の新見を示し、「朝鮮軍記物の展開様相についての考察」(『語文』百十八号、二〇〇四年)で、その後の見解を明らかにした。これを受けたのが、金時徳氏『異国征伐戦記の世界』(二〇一〇年、笠間書院刊)で、『椿説弓張月』などを異国(韓半島、琉球列島、蝦夷地)征伐戦記として位置付けて論じた。また金永昊氏「『剪灯新話』の翻案とアジア漢字文化圏怪異小説の成立」(『二松』二十二集、二〇〇八年)、辺恩田氏『語り物の比較研究』(二〇〇二年、翰林書房刊)、琴栄辰氏「『醒睡笑』巻二「吝太郎」第六話の典拠」(『語文研究』百六号、二〇〇八年十二月)も優れた成果である。
・日本近世文学研究に朝鮮古典小説を読んだことが役立った典型。先ず染谷智幸氏『西鶴小説論』(二〇〇五年、翰林書房刊)を始めとする一連の研究を挙げたいが、特筆すべきは、染谷氏が韓国文学の研究にも貢献していることである。つまり高田衛氏の『南総里見八犬伝』研究の成果を応用し、『九雲夢』の構成を金剛界曼荼羅に依ると看破し、韓国で全く知られていなかった漢文体好色説話集『紀伊斎常談』を発見、『きのふはけふの物語』との類話を見出すなどの成果をあげた上、ソウル大学に寄贈した。また、エマニュエル・パストリッチ氏「十八世紀日本と韓国における中国通俗小説の受容と知識人の反応」(拙編『江戸の文事』。二〇〇〇年、ぺりかん社)は、中国通俗小説の朝日両国の享受の差を明らかにし、朝日中三ヶ国の言語修得による新しい文学史の登場を期待する。なお、染谷氏と鄭炳説氏の共編『韓国の古典小説』(二〇〇八年、ぺりかん社刊)は、日本近世文学に関心を持つ者にとって、何よりの朝鮮文学入門書である。
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韓日の文化交流における翻訳の重要性は、いまさら指摘するまでもなく、それは日本文学、さらには人文学の翻訳の場合も同様だろう。現在、韓国での古典文学を含む人文学の翻訳出版の割合は相対的に低く、特に近世文学の場合、完訳本の出版は一桁をやっと超える程度で、近世文学に限って翻訳の現況を論ずることは意味がない。
したがって本発表では、近世期古典人文学の分野(文学、語学、歴史、哲学、宗教、民俗など)全体の翻訳出版の状況を分析対象とし、近世文学の翻訳を中心に据えながら韓国での日本近世期研究の現況と課題を明らかにしようと思う。
そのため、日本近世期の文学作品を含む人文学分野の翻訳出版(1次資料)と共に、日本で刊行された概説書と研究書などの韓国における翻訳出版の現況をデータベース化・分析し、そこから見えてくる韓国の「江戸時代研究史」及び翻訳の現況を鳥瞰する。
あわせて、韓国における日本近世文学作品の翻訳の特徴を探るため、他時代作品の翻訳状況、ひいては韓国での近世期中国文学作品の翻訳状況との対比をも行う。さらには韓国知識人の近世日本認識の変化と、近世古典人文学分野の翻訳出版の様相と意味などを新たに照らし出してみる。
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近世日本における壬辰倭乱(文禄の役)に関する記録化・文芸化は、幕府や朝廷の公式記録がないままに行われた、という朝鮮、中国とは異なる特色を見せている。壬辰倭乱に関する日本での文学化の大略を述べるならば、戦争の?末を事実的に捉えようとする朝鮮軍記物の成立と虚構化された文芸物の出現という二つの流れがあり、それぞれが大きな流れを形成してきた。
まず、十八世紀初めまでは、いわゆる朝鮮軍記物が成立する時期と捉えることができる。その成立は戦乱の最中、もしくは戦乱直後の断片的な記録類を経て、以下の三段階の過程でもって展開していく。第一段階は、七年間にわたる壬辰倭乱の全体的様相が初めて小瀬甫庵の『太閤記』によって整理され、第二段階では、秀吉一代記の一部という『太閤記』の性格を脱して、もっぱら壬辰倭乱のみを取り扱った『朝鮮征伐記』が登場する。第三段階では、朝鮮側の『懲リ録』が流入し、戦争相手国の動きをも捉えた、名実ともに完全な形の「朝鮮軍記物」が成立することになった。そして十八世紀後半からは人形浄瑠璃・歌舞伎のなかに、戦乱期に活躍した特定の人物のイメージを生かした謀反物が現れる。/p>
この二つの流れを前提に、明治日本の時代状況のなかで、壬辰倭乱(文禄の役)は政治的に機能していくことになる。
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十二回を数えた江戸期の通信使行のうちで、最後から二番目に当たる一七六四年の交流はとりわけ意外な展開をみせた。通信使一行と木村蒹葭堂グループらとの親交がソウルに伝えられたさい、洪大容・李徳懋・柳得恭・朴斉家といった人々のあいだで日本文人への関心が高まったからである。その結果、洪大容は清朝の北京に同様の文人を求めて旅立ち、ゆくりなくも厳誠・潘庭?・陸飛ら杭州出身の挙人と「天涯知己」となった。中・朝間の文人交流はその後いよいよ盛んとなり、李徳懋や朴斉家が北京で知り合った紀イ・翁方綱・羅聘・伊秉綬・張船山らとの交流は、学芸共和国の成立を疑問の余地なく示している。その活動の片鱗は多くの筆談記録のほか、丁敬や黄易の篆刻作品のなかに陸飛・潘庭?のために彫られた印が散見することや、近年北京で複製された陸飛の画帖(『栄宝斎蔵冊頁選』二〇〇九年)によってうかがうことができる。また一八二一年に田能村竹田が編んだ清詩のアンソロジー『今才調集』に前記清朝詩人らの作が見出せるのは、学芸共和国の夢を竹田も共有していた証左である。
馬琴読本には数多くの悪人が登場するが、その悪人の造形および懲悪の論理に関しては、従来の研究ではほとんど議論されていない。本発表では、『独考論』(文政二年)などを基に、馬琴読本における懲悪の意義を検討し、その懲悪を支えている主な思想を明らかにしたい。また併せて懲悪と異国観との関わりについても言及する。
読本『昔語質屋庫』(文化七年)、考証随筆『燕石雑志』(文化八年)などにも勧善懲悪の考えが見られるが、特に只野真葛の『独考』(文化十四年)を批判した『独考論』において、真葛が善悪を一個の人間の内部に共存する道徳として捉えているのに対して、馬琴は善悪を「善人」、「悪人」と具体的なあり様に振分けて語ろうとする。一見単純すぎるように見えるこうした区別によって、善と悪を二極的に対立させ、善人が悪人を排除し、善なる社会を構成するという読本創作の原理へとつながる社会秩序論を構築しえているのである。
このように儒学思想と深く関連する懲悪論は、馬琴の異国観の根幹を形造っている。『椿説弓張月』(文化四年〜同八年)の曚雲、痘鬼翁のように、儒学思想が社会秩序となっていない異界からくる異人と怪物を〈悪〉として捉え、徹底的に懲していることはその反映である。『弓張月』及び『南総里見八犬伝』(文化十一年〜天保十三年)における悪人の類型を抽出することによって、馬琴の異国観の特徴を明らかにし、読本にみられる懲悪のモチーフが長編読本構造の核心になっていることを示すものとして位置づける。
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岡島冠山編『太平記演義』(享保四年刊、以下『演義』)について、従来、『太平記』の演義小説化としてその特殊な翻訳営為にもっぱら注意が払われ、考察されてきた。しかし、『演義』が基づいた『太平記』諸本の特定、ならびに『太平記』を抜粋し再編した『演義』の編纂形態の特徴といった『太平記』受容との関わりについてはほとんど言及されていない。
本発表では、まず、冠山が今井弘済・内藤貞顕編『参考太平記』(元禄二年成立、同四年刊)を底本にして『演義』を編纂していることを明らかにする。先行研究では底本を流布本『太平記』のみに限定し、それと異なる内容の箇所を『演義』を執筆する際の冠山による創作と判断しているが、諸本を参照すると、その改変は『参考太平記』の編者が諸本の比較や諸資料の校訂に基づいて記した注記の内容に拠っていることがわかる。
また、上段が白話文による「太平記演義」(以下「演義」)、下段が漢字片仮名交じり文による「太平記通俗」(以下「通俗」)という二段構成の『演義』について、通説ではまず流布本『太平記』から上段の「演義」へと白話訳され、次いで「演義」から下段の「通俗」へと日本語訳されたと認識されてきた。しかし、諸本の修正箇所を中心に本文を検討すると、むしろ先に『参考太平記』を日本語文として抜書きすることで「通俗」が成立し、その後に「通俗」から「演義」へと白話訳されたと解釈するのが適当であると考えられる。以上の観点から『演義』を『太平記』受容の見地から再検討する必要性についても論じたい。
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近松浄瑠璃『本朝三国志』(享保四年、竹本座初演)についての先行研究には、原道生氏や諸解説で触れるように、第五段が「劇中劇」として「御前あやつり」の体裁や人形操作などの多くの問題を孕んだとの指摘がある。しかし、「劇中劇」の役割や効果については述べられていない。また人形操作の可能性についても、二つの見方がある。これでは人形浄瑠璃の舞台芸能や語り物としての考察は充分とはいえない。舞台芸能の性質「一回性」や当時の資料不足など演出(語り)を証明することは難しい。しかし特殊な演出だからこそ残った資料も確かにある。本発表では、限られた資料からではあるが、本作の第五段の演出の一端を明らかにしたい。
具体的には『本朝三国志』の第五段目の本文と絵尽を中心に周辺の資料を利用し、その舞台や人形操作について考察する。絵尽に描かれている、人形が大仏の鼻から飛び出る場面が、実演されたかどうか、そして「大仏」という大道具が継承されたかどうかを確認できる資料が見つかった。それが『都(洛陽)見物左衛門』の本文と『観物画譜』の刷物二点であり、発表ではその詳細について検討する。また諸注釈で不明であった「中之巻」の「大わう道行」が、他の異国言葉もじりとの対比で語り物の特徴を生かした箇所であったことを明らかにする。また古浄瑠璃からあった人形を引き裂く演出が「下之巻」で踏襲されていることや、「上巻」の「沐海潜」など不明箇所の問題も確認したい。
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四世鶴屋南北が立作者の地位に就いたのは、享和元年とも享和三年ともされる。しかし、立作者になったとは言え、瀬川如皐や奈河七五三助、烏亭焉馬、並木五瓶と同座していて、常に南北以外にもう一人の立作者がいる状態が続いた。そのために、南北は初春狂言の二番目や夏狂言、あるいは滑稽、怪異を描いた小幕を執筆するにとどまっている。
この時期の作品の特徴は、多く筋とは絡みにくい独立した一つの見せ場が中心になっていることである。例えば『館結花行列』(文化三年四月、中村座)のお初(五世岩井半四郎)と奥女中との滑稽なやりとりの茶番の場、『四天王楓江戸粧』(文化元年十一月、河原崎座)の袴垂お安(初世尾上栄三郎後の三世尾上菊五郎)の男夜鷹のおかしみの場がそうである。立作者になったばかりの南北には、立作者として作品全体の筋を十分に統括することができず、場面と場面の面白さを重視する三番目作者以前の慣習が、まだ残っていたと思われる。『壮平家物語』(文化三年十一月、市村座)の初世尾上松助の幽霊遣いが登場する滑稽な場面と、その後の円熟期の『盟三五大切』(文政八年九月、中村座)の幽霊の登場する場面と比べると明らかである。個々の場面に拘泥するこの時期の南北の特徴は、同時期に書かれた南北初の合巻『金毘羅/御利生 敵討乗合噺(かたきうちのりあいばなし)』(文化五年正月刊)からも確認できる。
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京都祇園に伝承される日本舞踊、京舞井上流には、歌舞伎の影響を受けたと考えられる作品が数多く認められる。しかし、江戸歌舞伎の正本と比較検討する従来の日本舞踊の研究においては、井上流固有の伝承作品の詞章は十分に解明することができなかった。これらの作品は、井上流形成期にあたる寛政期から幕末にいたる京都及び大坂の歌舞伎の影響を受けて成立しているのであり、江戸の歌舞伎と同じモチーフであっても、上方特有のアレンジが加えられ、江戸の正本と比較しても一致することは少ない。加えて、上方では、江戸のように系統だって正本を出版する習慣がなく、舞踊の実態は明らかにされてこなかった。
そこで、本発表では、井上流伝承曲の詞章を検討し、その背景に存在したと考えられる上方の歌舞伎文化を考察する。たとえば、詞章の直接的典拠が判明しない井上流固有の伝承曲に、『南総里見八犬伝』の信乃に取材した「信乃」がある。娘姿の信乃が、古河城を攻める味方の貝鉦をきっかけに、若武者の姿に立ち返るというこの舞踊は、八犬伝のエッセンスを取り入れながらも、原作とも残された台帳とも異なった設定をもつ。しかし、娘姿の信乃が描かれた上方絵の存在は、この舞踊の成立背景を想起させるものであり、今日例外視される同曲も、明治期における他流の伝承が確認でき、普及していた可能性もある。こうした状況を検討し、上方の舞踊の形成過程を明らかにしたい。
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雨森芳洲の詩文に関する先行研究には、中村幸彦「風雅論的文学観」(『中村幸彦著述集1』)、上野日出刀「雨森芳洲について(二)」(活水論文集日本文学科編29、昭和六一年)、丹羽博之「雨森芳洲『橘窓茶話』に見える杜甫・白楽天」(大手前大学人文科学部論集7、平成一九年)等があるが、芳洲の漢詩観についての検討は、まだ充分とは云えない。そこで本発表では、『橘窓茶話』(芳洲文庫所蔵写本)に述べられている芳洲の漢詩観について考察する。
『橘窓茶話』中の、芳洲の漢詩に関する言説の中には、唐詩を模範とし、宋詩・明詩を批判するものが多く見られる。たとえば、明詩を批判した箇所で「夫れ明人の詩の如きは、譬えば、嬌妾妖姫素り天然の妙姿無くして掩映修飾して?媚を希い求めるが如し」という。芳洲は、同じ箇所で、漢詩において「自然之意」を重視し、「安排摸擬」する作詩法を批判している。こういった言説は、古文辞派への批判意識、ひいては、荻生徂徠への評価にもつながっている可能性がある。さらに、明詩を批判した箇所に「明詩を学ぶ者は、務めて声律に於いて力を竭して(中略)却って膏粱の滋味無し」とあるが、芳洲の言う「滋味」は道義を意識した言葉だということが『芳洲口授』(嘉永元年刊)から確認できる。
発表者は、芳洲の批判する漢詩の内実を明確にするとともに、芳洲の理想とする漢詩のあり方を論証する
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林鵞峰編『本朝一人一首』は日本漢文学の本格的な研究書の嚆矢として、新日本古典文学大系にも収録された重要な著作であるが、同書の板行をめぐって、これまで十分な検討がなされているとは言い難い。『国書総目録』(日本古典籍総合目録データベース)をはじめ、『本朝一人一首』の刊年を寛文五年〈一六六五〉とする解説が多い。一方で、それを「寛文五年跋刊」と指摘した『日本古典文学大辞典』「黒川道祐」項(中村幸彦氏執筆)の記述も見逃せない。
関西大学図書館中村幸彦文庫には、中村氏が巻末に初刷の黒川玄通跋(刊語)を書写した『本朝一人一首』の後印本が所蔵されているが、跋語の転写に使われた初印本の所在は不明である。近時、発表者は玄通の跋文をもつ『本朝一人一首』の板本を見る機会を得たので、玄通跋本の存在と、それに基づく諸本の調査結果を報告する。
鵞峰の長男林梅洞によって筆録された『本朝一人一首』の稿本が成立したのは、万治三年〈一六六〇〉の秋である。それ以来、同書はずっと写本のままで林家に保管されていた。「海内の詩を好む者と之を共にす」(玄通跋・原漢文)と宣言し、『本朝一人一首』を公刊したのは、黒川玄通であるようだが、彼がどのようにして林家の写本を入手したのか、黒川家と林家の交渉に焦点をあて、『本朝一人一首』が刊行に至るまでの経緯を探ってみたい。
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これまでの北条団水研究は、西鶴作品との関連から論じられることが多く、団水作そのものの分析が十分になされているとは言い難い状況にあった。よって、本発表では、北条団水の好色物浮世草子のうち、早稲田大学図書館蔵『野傾友三味線』(宝永五年刊)を取り上げ、団水の創作技法を論じることとする。
『野傾友三味線』については、これまでに長谷川強氏が『男色大鑑』の趣向取りを指摘されているものの、団水が依拠した先行文芸の指摘に乏しい作品であった。故に、本発表では、『けいせい色三味線』(元禄十四年刊)・『風流曲三味線』(宝永三年刊)等、江島其磧の作品が本書に与えた影響を明らかにしていくこととする。
また、団水作の特徴としては、従来、典拠となる作品の文章を切り貼りしたような傾向がみられることが指摘されている(このことは、『色道大鼓』や『日本新永代蔵』に顕著である)が、『野傾友三味線』にはこのような叙述はあまりみられない。特に、各話の筋に関わる部分においては、先行文芸は本書を咄のオチを効かせた短編集に仕上げるために利用されており、粉本の安易な剽窃はなされていないことがわかる。
このように、『野傾友三味線』が依拠した作品とその利用法について、同時代他作家の浮世草子を視野に置きつつ考察することは、浮世草子作家北条団水を再評価する足掛かりになるものと思われる。
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春水の人情本では、人間性の中で善と見なすべきものを「人情」という。ところが、鼻山人の人情本では、人間本然の性という意味で「人情」の語を用いているため、人情を描く場面の中に「欲」の描写も少なくない。それには、すでに指摘されている仏教の因果応報説を軸にした鼻山人の人情本の筋立ても影響を与えていた。鼻山人は「欲」を悪の根源とし、それに起因する因果応報をしばしば描いていたからである。
「欲」を人情に含めたことによって、鼻山人の作品では、悪人が滅びる場面を愁嘆場として描くことも可能となった。『恩愛二葉草』のお肌がその例である。お肌は悪女ではあるものの、我が子への恩愛の情も備えており、鼻山人は、恩愛のために「悪心(あくしん)に傾(かたぶ)く事(こと)あるも人情(にんじやう)の常(つね)」と言っている。悪行の報いとしてお肌は、ついには目が見えなくなり、夜叉五郎に殺されることになる。その最期の場面では、お肌に情をかける娘の恩愛や、それに気付いても我が罪を恥い、母であることを告げられないまま殺されるお肌の悲しさが描かれている。発端にあるお肌の娘への恩愛の描写とあいまって、末尾の懲悪の場面を印象的な愁嘆場に仕立てている。
これは、読本や松亭金水の人情本の懲悪の場面が、悪人への復讐を果すことで読者にある種のカタルシスを与えていたこととも、春水人情本が 「いき」な人物の描写をもっぱらとし勧懲の側面を弱めていたこととも異なる、鼻山人の人情本の大きな特徴である。
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西鶴が噺本からも小説創作の素材と発想を得たことに関しては、すでに先学の指摘がある。そして本発表では、先学のそのような見解をさらに裏打ちする証左として、『一休諸国物語』(寛文十二年刊、五巻五冊)および『当世手打笑』(延宝九年刊、五巻)に見える小咄二話を提示し、もって、西鶴本との類話関係を検討する。
まず、西鶴の『万の文反古』(元禄九年刊、五巻五冊)五の二「二膳居ゑる旅の面影」(貞享三、四年頃成立)には、間男が亭主を闇打ちする内容や、未亡人になった女房が世間を意識して嘘の嘆きをする場面が見られるが、これと類似する内容が、『一休諸国物語』巻三、第四話「女房夫を殺すこと」にも見える。そこで本発表では、『一休諸国物語』のこの話を『万の文反古』五の二の類話として提示し、従来、先学の指摘があった『堪忍記』、『合類大因縁集』、『迪吉録』の類話との総合的な比較検討を試みる。
次に、西鶴本とされる『浮世栄花一代男』(元禄六年刊、四巻四冊)二の三「籠の鳥かやあかぬなげぶし」には、下女の出産騒動に触発された、主人の間男吟味の一場面が見られるが、これと発想的によく似ている内容が、『当世手打笑』巻五、第十一話「人に間男といはるゝ事」にも存する。すなわち、女房の出産の検診に訪れた医者を間男と疑い、亭主が吟味するという法界悋気の場面がそれである。そこで本発表では、『当世手打笑』に見えるこの話と『浮世栄花一代男』二の三との類話関係についても合わせて検討を加えてゆきたい。
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近世演劇における異国像とは如何なるものであっただろうか。当時の異国像、特に朝鮮像が窺えるものとして近松門左衛門の作品に注目したい。
まず、注意を引くのが朝鮮関連の用例である。近松の浄瑠璃、歌舞伎作品の中で、朝鮮を舞台にした作品はごく僅かであるが、朝鮮関連の用例は数多くみられる。ここでいう「朝鮮関連」とは「朝鮮」に限らず、「高麗」、「三韓」、「新羅」、「百済」そして「朝鮮人」、「高麗人」の他、明らかに朝鮮人のことを指す「唐人」なども含む。朝鮮への漂流、神功皇后伝説、文禄・慶長の役、朝鮮通信使に関するものなど、多岐にわたる。興味深いのはその使い方にある種の傾向が見受けられることである。近松は、客観的な事実として言及する際には「朝鮮」を用い、「高麗」や「三韓」とは使い分けているようである。
朝鮮に対する近松の関心が窺われる作品としては『大職冠』(正徳元年)と『本朝三国志』(享保四年)をあげることができる。特に『大職冠』は、近松が大坂にやって来た通信使節団を実際に見たであろうことが推測される作品である(拙稿「近松の作品と朝鮮通信使―『大職冠』の場合―」『国語国文』平成23年3月)。
他に、「国性爺合戦」系列の作品群のように、その挿絵に朝鮮通信使からの影響が指摘できるものもある。これらの用例と作品を通じて、素材としての朝鮮、そして近松が捉えた朝鮮像について考えたい。
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膝栗毛もの〉の図様継承史の中に、『東海道中栗毛弥次馬』という全く同じ標題を有する三種の別本が合巻や錦絵として存在する。魯文作・芳直画の安政二(1855)年序のもの、魯文作・芳幾画の万延元(1860)年改のもの、岳亭春信作・芳幾画の文久元(1861)年序・改のものである。この三種の『東海道中栗毛弥次馬』の相互影響関係を述べ、成立背景には板元当世堂品川屋久助の企画意図があったことを示したい。また、岳亭春信関連の〈膝栗毛もの〉合巻は文久元年刊のこれ以外にも、更に二種が前後して刊行されているので合わせて内容的特徴を考察する。さて、これらの作者「岳亭春信」とは如何なる人物なのか、実はこの人は二代目岳亭春信なのである。
小田島洋氏が1976年度科研報告書、及び国際浮世絵学会大会(2001・11・23)で「岳亭の基礎的研究」を発表して問題提起した以降も、今尚(『浮世絵大事典』2008、その他)初代と二代目の混同は続いていることから、二代目の業績をしっかり調べる必要があった。その結果、幕末・明治初期の仕事の足跡が辿れる数少ない戯作者の一人という点において、近年進んできた「近世と近代を繋ぐ」という視点での文学史研究にとっても大事な人物であることがわかった。二代目岳亭の関わった仕事、五十一作を調査した結果を提示することで、合わせて戯号ー@岳亭梁左、A出子散人、B且志庵、C文雀、D狂作堂、(山亭秋信、文亭春峩)E岳亭春信、F岳亭定岡ーの変遷時期も指摘できる。
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『浄瑠璃御前物語』は十二段本と十六段本、その中間的な本文を備える諸本がある。この点について、信多純一先生の『浄瑠璃御前物語の研究』(岩波書店)によって、増補説(すなわち十二段本が原型)と、十六段本原像説との論点が明確となり、十六段本原像説がほぼ決定的となったといってよい。 それに先行して、平成十一年に十六段本が岩波書店の新古典文学大系『古浄瑠璃 説経集』に底本として採択されており、十六段本は古浄瑠璃の正本とみなされている。
一方、草子系としてこの作品を扱う立場に立てば、昭和五十五年に松本隆信氏は新潮社の新潮古典集成『御伽草子集』に十二段本の代表たる古活字本(東大本)を底本として採択されている。この古活字版については、森武之助氏が現在の多くの諸本の祖本として「草子系の祖本」「物語草子風の香が強い刊本は、小異を除き、皆、本書を祖述したものであって」と評されている(昭和三十七年『浄瑠璃物語研究』)。
『朝鮮旧書考』(昭和十五年、岩波書店)、『徒然草分類索引』(昭和十一年、岩波書店)、『勘の研究』(昭和八年、岩波書店)などの著のある黒田亮は、旧京城大学の教官であり、蔵書家でもあった。『徒然草分類索引』の異本対校に用いられた諸本は、一本を除きすべて彼の蔵書によっており、その『徒然草』諸本は現在中之島図書館に収められている。彼の旧蔵に『浄瑠璃御前物語』(近世初期成立、写本、現日本女子大学蔵本、以下「女子大本」)があった。草子系本文を持つ十二段本である。しかしながら、古活字本(東大本)とは本文に異同がある。この点につき、本発表では、古活字本から女子大本が生まれたのではなく、両者に共通する祖本を想定すべきことを論じて大方のご批判を賜りたい。すなわち、東大本が草子系の祖本ではなく、その「祖本」があることを論じ、東大本と女子大本を校合することでその祖本の本文を考えてみたいと思う。
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藤井懶斎『本朝孝子伝』(貞享二年〈一六八五〉十月刊)は「天子」「公卿」「士庶」「婦女」「今世」の五部構成である。西鶴『本朝二十不孝』との比較の材料として用いられることの多かった該書であるが、井上敏幸は「今世」部がいちはやく当代の孝子を取り上げたことに着目し、「この『事實』への異常なまでのこだわり」によって「真の意味での、近世孝行説話集の誕生」が達成されたと評価した。
いっぽう該書は大変流行したため、古典から孝子を集めた「今世」部を除く他の章段で選ばれた人物が、その後の日本における孝子の代表として扱われることともなった。つまり孝子のカノン形成という視点からも重要な位置にある書物だという訳である。
しかし『本朝孝子伝』における古典からの人選が妥当なものであったかについては、いまだ検討したものを見ない。そこで本研究では『本朝孝子伝』各章段と原典との突き合せを行い、また先行作・後続作(浅井了意『大倭二十四孝』、林氈w本朝孝子伝』等)との人選の比較を行った。
その結果、『本朝孝子伝』の採録と記述には、かなり偏った面があることが分かった。そしてその背景には、従来指摘されて来た事実へのこだわりの一方で、儒学者・懶斎らしい仏教批判の側面が大きく影響を与えていることが明らかになった。
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賀茂季鷹が蔵書家として生前から名高かったことは、門人松田直兄が記した季鷹の墓碑銘(西賀茂小谷墓地)に「傍爾並建文庫、倭漢之書籍數千巻乎蔵」と記されることからも明らかであるが、季鷹の蔵書家としての顔は意外に知られていなかった。近年、藤本孝一・万波寿子「山本家典籍目録―賀茂季鷹所持本―」(「京都市歴史資料館紀要」第21号、平成19年)が刊行されたが、歌人・国学者として京文壇を領導する位置にあった季鷹の多面的な活動や人的交流を考慮して、その蔵書形成に検討を加える事は意義があると思われる。
季鷹の旧蔵書は、京都上賀茂に約二一〇年前に建てられた当時の姿をほぼ保持して残されている季鷹の別荘雲錦亭に歴代の御当主によって保存されてきた。もともとは上賀茂神社の社家町の書物文化の中で育まれた蔵書は、季鷹の代になって、日野家・飛鳥井家・武者小路家など京の堂上諸家との交流によって書写された本、牘庫本の購入や山岡明阿・三嶋景雄・石見浜田藩藩主松平康福の所蔵本の書写など江戸遊学中に収集された書物、『清輔片仮名本古今集』(下巻、鎌倉期写)などの雲錦亭への献本によって豊かになり、宮廷からの正本の借り出しなどもあった。これらの具体例を挙げつつ、季鷹旧蔵書の@収集のされ方、A整理のされ方、B提供のされ方(他者の利用)という三点を整理し、概観する。このことは、表現者・国学者としての季鷹の知の源を探ることにもなるであろう。
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文化二年正月、大坂の河内屋太助他から刊行された『月氷奇縁』は、曲亭馬琴が初めて手掛けた半紙型読本として名高い。本書の画工については、奥付や挿絵部分をはじめどこにも記載がないが、従来、『近世物之本江戸作者部類』巻第二上「曲亭主人」の記述から、巻一、二は流光斎如圭が、巻三以降は流光斎病気のため別人が描いたとされてきた。流光斎画工説は、馬琴自らの記述、ということで信憑性が高かったのである。
しかし、同じく馬琴著で同時期刊行の『石言遺響』末尾に付された「乙丑発行曲亭先生著述目録」の「月氷奇縁」には「浪華松好斎画」と明記されている。不思議なことに松好斎の名はこの後消えていくようであるが、このことは考慮されるべきであろう。
さて、流光斎と松好斎はともに大坂の絵師である。蔀関月に師事した後に浮世絵を手掛けたのが流光斎で、松好斎はその弟子にあたる。ともに役者顔似せ絵師として名を馳せ、画風が酷似している作品も多い。師弟であることと、顔似せは特徴が類型化しやすいことによる画風の類似である。しかし、役者絵以外の版本挿絵を比較検討していくと、人物描写には各自の個性が認められ、特に女性の顔には顕著な違いがある。しかも、『月氷奇縁』巻一、二の挿絵は、流光斎ではなく松好斎の画風に近似していることがわかってきた。
本発表では、『月氷奇縁』の挿絵と流光斎・松好斎の版本挿絵を比較検討し、『月氷奇縁』の画工が松好斎であることを推定した上で、その周辺事情を探ってみたい。
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まだまだ少ないとはいいながら、近年の軍書・実録研究の進展、特に金時徳『異国征伐戦記の世界 韓半島・琉球列島・蝦夷地』の出現によって、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)に関する軍記・小説における武将像を、通時的に見渡すことがようやくできるようになってきた。そこで、本発表では、小早川隆景に焦点を当てることとする。隆景は、『常山紀談』や『名将言行録』のような、代表的な武家説話集成において「智将」のイメージが確立しており、『絵本朝鮮軍記』のような絵入の娯楽小説においても、その三つ巴紋が、初印本元表紙では、秀吉と加藤清正の紋と並んであしらわれるように、忠臣・勇将の代表格である清正とは役割を異にしながら、時には主役級の重みすら獲得していた。
時間の制約もあるので、今回は、隆景の活躍によって、日本軍の危機を救い、明の大軍を撃破したと伝えられる碧蹄館の戦いをめぐる諸言説に絞って、これを整理する。この戦いにおける隆景像は、上杉流軍学者宇佐美定祐の『朝鮮征伐記』と、甲州流軍学者香西成資『南海治乱記』が、その主たる源流であることを確認し、それらが後続の軍書・武家説話集等でどう成長・転化・編集されていったかを整理する。特に、福岡藩お抱え軍学者でもあった香西成資の執筆活動、および成資のこの戦いをめぐる言説が、朝鮮に招来した問題についても新見を報告する。
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