平成20年度秋季大会発表要旨

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1. 松平雪川の俳諧活動
  ―京伝との関わりに触れながら―

北海道大学(院)

鹿島美里

松江藩主松平治郷の弟、松平雪川は山東京伝の作品にたびたび登場し、作品に多大な影響を与えるとともに京伝の後援者の一人でもあった。『通言総籬』の中で、雪川の俳譜は「きついもんだそうだの」と評されるものの、雪川の俳諧活動は未だ明らかにされていない点が多い。そこで本発表では雪川の俳諧交友を考察することにより雪川と大名子弟、江戸座俳諧宗匠との関係を明らかにし、京伝を取り巻く文化圏の一端の解明を試みる。

雪川の俳諧に影響を与えた人物として、江戸座存義側宗匠の二世旨原と伊勢国神戸藩主本多清秋があげられる。雪川は二世旨原の追悼集『其一葉』を編纂している。また、その序文で二世旨原の閲歴を記したのが清秋である。同序文中に二世旨原の「道の弟」と称された江戸座俳譜宗匠岩松が、清秋や雪川とも深い繋がりを持っていたことに注目していく。そして雪川の主な俳諧活動の集大成である『為楽庵雪川発句集』からは大名子弟だけでなく江戸座俳諧宗匠と雪川との密接な交友が浮き彫りになってきた。さらに雪川が遊び場とした深川洲崎の料理茶屋升屋が、京伝や雪川を結ぶ文化交流の場であったことについても検討を加えたい。雪川ら大名子弟が江戸座俳諧宗匠と俳諧交友を行う中から京伝作品をはじめとする多くの江戸文芸が生み出されていく。よって本課題を解明することは京伝の置かれていた文化圏を鮮明にし、作品解釈を行う上でも重要な意味を持つことになるだろう。


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2. 幕末・明治初期漢詩壇再考
  ―京坂の漢詩人を中心に―

東京大学(院)

合山林太郎

幕末期の漢詩の世界は、大沼枕山率いる江戸詩壇を中心に捉えられることが多いが、広瀬旭荘、河野鉄兜、柴秋村らによって構成された京坂詩壇も活発な動きを見せている。

京坂の漢詩人は、宋詩を好む江戸の詩人とは異なる志向を持っていた。鉄兜は、清代王漁洋の詩を高く評価し、秋村は、化政期の江戸詩壇で流行した、南宋末期の江湖派などの詩風について、繊弱で俗気があると批判している。

また、彼らの作品には想像力豊かなものが見られる。鉄兜は、「晃曜山河光不定/地球如月落杯中」(「小游仙曲」第二十三首、転結句、『鉄兜遺稿』巻下、明治三十二年刊)と、月世界の仙女嫦蛾の持つ杯には、地球が映っていると詠う。酒杯に月が映るという漢詩の伝統的表現を、地球という新知識によって作り替えたのである。

京坂詩壇は、尾張の詩人森春濤が、明治初期の東京漢詩壇の盟主となる過程とも密接な関係がある。春濤は、『安政三十二家絶句』(安政四年刊)などの京坂で編まれた絶句集に入集することで、詩人としての名を揚げた。とくに鉄兜と春濤とは、神仙に関わる表現を好むなど、詩風においても共通点がある。また、春濤の支持者であった新政府の文人官僚には、野口松陽をはじめ、京坂で青年期を過ごした者が多い。

春濤の東京での活躍は、通常、同じ時期の枕山一派の没落と対比され、新旧交代の図式で論じられるが、むしろ、幕末京坂から始まった潮流の帰結として理解すべきである。


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3. 読本『浪華侠夫伝』における歌舞伎摂取の手法
  ―「けいせい筥伝授」との関係を中心に―

阪急学園池田文庫

北川博子

『浪華侠夫伝』は、文化五年に大坂の版元塩屋長兵衛から版行された栗杖亭鬼卵作、松好斎半兵衛画の読本である。本書に登場する義賊筑紫権六については、藤沢毅氏が「『浪華侠夫伝』における演劇と実録」(二〇〇四年『読本研究新集 第五集』所収)において、「『筑紫権六』という名前は、管見の限り『侠夫伝』刊行の文化五年以前には見出せていない」とし、実録との関係から「『侠夫伝』の中の筑紫権六は、日本左衛門こと浜島庄兵衛のイメージで描かれていた」とされた。

本発表では、筑紫権六は読本が初出ではなく、享和四年正月、大坂角の芝居で初演された歌舞伎「けいせい筥伝授」の主要人物であることを明らかにする。美男の役者二代目嵐吉三郎がこの役を演じ、流行歌が作られるほどの評判を取った。『浪華侠夫伝』でも、本文や挿絵に、吉三郎を想起させるような表現が用いられており、口絵も役者似顔絵の手法で描かれている。

さらに、読本と歌舞伎との関連を、読本が出された前年、同じ塩屋長兵衛から版行された松好斎画の芝居絵本『契情筥伝授』に注目しながら考察する。従来、『契情筥伝授』は絵入根本に分類されていたが、序文の表記や全体の構成などを鑑みると、芝居絵本とするのが妥当と思われる。絵本や一枚絵で、役者似顔絵の版権を有していた塩屋長兵衛の動向を確認しながら、『浪華侠夫伝』と歌舞伎との関連を述べていきたい。


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4. 豊後節の隆盛とその分派
  ―享保末からの江戸における音曲享受の諸相―

青山学院女子短期大学

鹿倉 秀典

岩沙慎一『江戸豊後浄瑠璃史』によれば、宮古路豊後掾が江戸に下ったのは、享保十九年とされている。以降、根生いの半太夫節や河東節、また先に下った一中節をも凌駕する勢いを得るわけだが、元文年間に江戸幕府より禁止されてしまう。その後、弟子たちは分派を繰り返し、常磐津・富本・清元の所謂「豊後三流」の芝居の音曲へと、あるいは、新内・宮薗といった遊里や巷間の音曲などへと発展したのは周知のことであろう。

ただし、江戸における豊後三流は「芝居の音曲(劇場付随音楽)」としてのみ推移したわけではない。大名あるいは通人・文人の会合の席にて、座敷浄瑠璃としても奏された。早い時期に分派した新内にいたっては、「流し」という形態をとり、幕末まで芝居に関わることがなかった。上方で分派し、江戸に下った宮薗も、遊里情緒を湛えた、座敷浄瑠璃としてもてはやされたようだ。

今回の発表では、前記『江戸豊後浄瑠璃史』を踏まえつつ、太夫・三絃に関わる演奏、上演史のみならず、豊後節諸派の「詞章」の特徴や作詞者たち、あるいは「享受」された場やこれらの音曲を愛好した文人たちに着目し、江戸の文化・文芸との相関を探っていきたい。当然のことながら、他の江戸古浄瑠璃諸派、江戸長唄などの「うた物」の動向にも、あわせて触れることになる。


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5. 化政期の歌文派和学者における教化意識の高まり
  ―宣長学の継承と変容―

明星大学

青山英正

本居宣長の学問が、歌学と古道学という二種の傾向を持った門人たちによって継承されたことは、夙に知られている。京都で鐸舎という歌文研究グループを結成していた城戸千楯(安永七年〜弘化二年)や、歌文制作に優れ、中古文学研究における業績も残した備中吉備津宮の神官藤井高尚(明和元年〜天保一一年)を、前者の代表的存在として挙げることができるが、その彼らにしても、道徳や政治について無関心だったわけでは決してなく、むしろ、千楯の『学びの広道』(文化一三年刊)や高尚の『三のしるべ』(文政一二年刊)といった著作からうかがわれるように、彼らの歌文観には、儒教的道徳観との積極的な融和傾向が見られる。

そのため、彼らの試みはこれまで、宣長古道論の根本的修正の志向(渡辺浩 「『道』と『雅び』(三)」『国家学会雑誌』一九七五年三月)とも批判的考察(小笠原春夫『神道信仰の系譜』一九八〇年)とも理解されてきたが、本発表では、宣長学をより時代に即した思想として活性化させようとする試みとして、彼ら鈴門和学者の文学的営為を捉えようと思う。そして、「世にふる人のためとなるべき教のすぢをのみ、まめやかにいひさと」(高尚『三のしるべ』)すこと、すなわち古道論を世間に教え広めることを、彼らがなぜ自らの任務として引き受けるに至ったのかという点について、彼らの思想や当時の学問状況を参照しっつ明らかにしてゆきたい。


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6. 『安政六年 堀内匡平日記』について
  ―『源氏物語紐鏡』出版と上方文人との交流―

愛媛大学(非)

下坂 憲子

安政五年成立の『源氏物語紐鏡』は、伊予松山藩興居島村の庄屋堀内匡平が、父昌郷による源氏物語注釈『葵の二葉』『底の玉藻』の要点を抽出し、簡略化した書である。亡父の研究を継いだ匡平は、本書を上梓すべく、翌六年四月、書林河内屋喜兵衛を訪ねている。

愛媛大学附属図書館蔵の堀内文庫『安政六年堀内匡平日記』には、その際に上洛した匡平一行の動向が丁寧に綴られている。そこには、僅か四ヵ月足らずの旅程を、名所旧跡、芝居、祭礼、名物に至るまで、知的好奇心のおもむくまま活発に見聞を広めた旅行者の姿があった。とりわけ興味深いのは、京阪から伊勢まで広範な旅を続けた匡平の傍に、上方の国学者の姿が少なからず確認できることである。例えば四月中旬からひと月余り滞在した京では、谷森善臣を訪ね古書を借覧し、河喜多真彦とは面会の翌日より同行し寺社や陵墓に赴き、さらには真彦を介して進藤千尋、当時大坂にん仕った近藤芳樹とも接触している。

従来の上方滞在記としては、多治比郁夫氏によって池田正樹や近藤芳樹の日記が紹介されている。同様に本資料も、地方文人の目を通して、当時の上方文人の動向がぬ窺える点で貴重な史料といえよう。

本発表では、『源氏物語紐鏡』出版にあたって、匡平が上方文人との交流からいかなる知見を得ることが出来たのか、考察を試みたい。


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7. 明和改正謡本における記紀説話
  −田安宗武『古事記詳説』の影響をめぐつて一

大阪樟蔭女子大学(非)

中尾 薫

明和二年(一七六五)に十五代観世大夫元章が刊行した観世流謡本、いわゆる明和改正謡本は、江戸初期以降ほぼ固定され変わることなく伝承されてきた謡曲詞章を大幅に改訂したことで名高い。その改訂詞章には、国学の影響がみられ、これまで賀茂真淵、加藤枝直など国学者の関与が指摘されてきた。

しかし、その改訂詞章について具体的に検討されることは少なく、どのように国学の影響があるのか、詳細に解明されているとはいえない。近年、橋場夕佳氏が「明和改正謡本における『伊勢物語』関係曲−新註との関係を中心に−」(『演劇学論叢』五号、二〇〇二年十二月)において、賀茂真淵の『伊勢物語古意』との一致点を指摘されているほか、発表者も新作能《梅》に、観世元章のパトロンである田安宗武の説が投影されていることなどを指摘しているが、このような具体的な影響関係を把握することは、明和改正謡本の成立過程や、謡本としての性質を知るうえで不可欠である。

本発表では、明和本のなかから神話世界を題材とした能について、まずは《淡路》《逆矛》をとりあげ、『古事記』の記述に合致するよう改訂されていることを指摘する。さらに、能《加茂》について、田安宗武の研究からなる『古事記詳説』における宗武独自の記紀説話解釈との共通性を考察していく。

このことは、明和改正謡本が、田安家における国学研究と密接に関わって成立したことを示唆するものである。


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8. 『帝鑑図説』の読まれかた
  ―『帝鑑評』を中心に―

国文学研究資料館

入口 敦志

これまであまり注目されてこなかったが、『帝鑑図説』は江戸時代を通じてよく読まれていたようである。『御書物方日記』には、吉宗が『帝鑑図説』を借りだしていることが記録されており、御書物方からの再三の返却伺いにも戻した形跡がない。また、書陵部蔵万暦初年刊『帝鑑図説』は、紅葉山文庫の重複本整理により一旦払い下げられたが、吉宗の指示で買い戻され(櫛笥節男『書庫渉猟−書写と装訂』)ており、吉宗が興味をもって手元に置いていたことがわかる。伊達文庫蔵明版は、朱や墨ではなく紙に穴を開けて点を付す特異な本。また別の書陵部蔵明版は毛利家旧蔵本であるが、末尾にいたるまで書き込みがあり、よく読まれた痕跡を残している。しかし、いずれも具体的にどのように読んでいたのかを知ることはできない。

寛永末年頃に岡山藩主池田光政と幕臣久世広之ら五人が『帝鑑図説』のうち三十五話に和文で評を行い『帝鑑評』という写本を作る。『帝鑑図説』の輪読会のようなことを行っていたことがわかり興味深いが、具体的にどのように読み、評価していたかがわかる点で貴重なもの。本発表ではこの『帝鑑評』での評言を中心に、『帝鑑図説』がどのように読まれていたのかということを探りたい。幕臣が加わっているにもかかわらず、幕府の存在そのものを否定しかねないような記述もみられ、池田光政という人物の一面を端的にあらわしているようにも読める。光政の施策などにも何らかの影響を与えたのではないかとも考えられ、この点についても考察してみる。


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9. 立教大学蔵『昨日は今日の物語』古活字十行本について

慶應義塾高等学校

石川俊一郎

『きのふはけふの物語』は多くの翻刻や複製が出版されている。学習院大学蔵写本(上巻のみ・七十話)も『古典文学大系』に他本にはない三十一の独自の話、『噺本大系』に全冊の翻刻が載せられており、『古典文学大系』解説で小高敏郎氏は「筆写は新しいが、文体・表記などよりして、祖本は古活字乃至はそれに準ずる古い本のように思われる。だがこの祖本も現存古活字本中に求め得ない。今まで未知の古活字乃至は写本が存在し、これが祖本となっているのだろう。」と述べていられる。

また、諸本研究は川瀬一馬氏によって基礎が築かれ、その後横山重氏、小高敏郎氏などの研究の後、岡雅彦氏によって系統図と主要諸本説話一覧が示されたのが現在の到達点である。

このたび、発表者の調査で立教大学蔵(江戸川乱歩旧蔵)寛永十三年版『きのふはけふの物語』は、上巻が古活字十行本、下巻が寛永十三年整版の取合せ本であり、そしてこの古活字版が学習院本の祖本であることが判明した。

立教本『昨日は今日の物語』は独自の話があるだけではなく、他の諸本全てにあるが、逆にこれだけには見られない話が二十一もある、非常に特色のある本である。そこで、岡氏の説話一覧を基に、話の出入り・配列などから諸本関係の再検討を加えたところ、従来の説とは異なり、立教本こそが『きのふはけふの物語』の最も古い本であるとの確信を得た。さらに他の古活字版の関係も見直し、系統図の改訂もしたいと思う。


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10. 蕉風復興運動と加藤暁台
  ―蕪村との交流をめぐって―

桜花学園大学

寺島 徹

中興期俳人、加藤暁台の伝記事項を整理・補足する過程で得た新資料の紹介をもとに、暁台の蕉風復興運動における俳諸活動ならびに蕪村との交流について検討してみたい。

今まで看過されてきた伊勢俳壇資料「逸漁文庫俳諧資料集」(綿屋文庫蔵)は、暁台の安永・天明期の蕉風復興運動を考える上で特に欠くことのできない大部な資料である。同資料の安永二年の条に、暁台による辻村逸漁への俳諧伝授の様が記される。この場において蕉門俳諧における「老」や「痩」の概念に通じる「からび」の措辞が見え、暁台の蕉風意識を探る上で新たな内容を含んでいる。一方、暁台門の国学者、加藤磯足の『蕉門俳諧附合安波世鏡』(尾西歴史民俗資料館蔵)には、蕪村に対する批評の書入があり、「からび」についても言及がみられる。その資料は、暁台と蕪村の交流の契機となった暁台句「乾鮭をしはぶりて我が皮肉哉」について論じる上で示唆的なものと考えられる。また、あらたに暁台の幻住庵入庵資料『古奈无』(安永九年二月)の自筆断簡(架蔵)も紹介し、その蕉門意識を探ることにより、暁台と蕪村の幻住庵における交渉(安永八年九月)について「からび」の面からも考察してみたい。

本発表では、暁台年譜の補足とともに、従来問題視されていなかった暁台周辺の資料を俎上にのせ、俳系の異なる暁台(伊勢派)と蕪村(江戸座)に通底していたと考えられる蕉風意識の一端についても私見を述べてみたい。


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11. 『おくのほそ道』「松島」再考

佐賀大学地域学歴史文化研究センター

井上敏幸

『おくのほそ道』「松島」の条の「們然」について、尾形仂氏は、林注『荘子』の傍注「ホレホレ」を「うっとり」の意だとされ、「其気色們然として」を「その景色の美しさは、見る人をして恍惚とさせ」と訳されている。「其気色們然として」の訳が、なぜ「見る人をして…させ」と訳せるのか、納得できない。文脈は、「気色が們然としている」のであって、その間に「見る人」の気分が入ってくる余地はない。「ホレホレ」にこだわったための恣意的な訳出だったといわざるをえない。そこで「們然」の別の用例を見てみると、道の「深奥之貌」(知北遊篇)という用い方がある。この「們然」だったとすれば、芭蕉は、松島の景色の中に道の深奥さを感じていたことになる。

次に「美人」について、尾形氏は「東坡の詩にいう、美女がいやが上にも美しく顔を化粧したかのごときおもむきがある」と訳されているが、『ほそ道』象潟の条の発句「象潟や雨に西施がねぶの花」を考えただけでも、松島を西施で説明するのは問題である。この「美人」は、明清時代の文人達が崇拝した「天地英霊之気」を「鍾(あつ)」めた「婦人」であった。この言い方は、女性の美をいう前は、漢詩文において、風景の美しさを説明する慣用句として、用いられたものであった。杜甫詩「望嶽」中の「造化鍾神秀」や新井白石の松島論中の「天地英霊之気所鍾」がそれである。芭蕉は松島の景色に「道の奥深さ」を感じていたのである。


(C)日本近世文学会