内藤記念くすり博物館に、『小鳥うた合』と題される本が所蔵される。『国書総目録』未載の本書は、他にはノートルダム清心女子大学黒川文庫に伝本が伝わるのみである。「十二類歌合、小鳥歌合、虫歌合、調度歌合」などが合冊される黒川文庫本の奥書には、「右一巻三条実隆入道逍遙院堯空真跡也。臨于此巻書写畢 公頼」とあり、本来実隆の真跡があった巻子本の写しであろう事が窺える。この奥書は、『群書類従』所収の「調度歌合」末尾にも見られ、この事から、「調度歌合」は、実隆の作かとされている。この黒川文庫本「小鳥歌合」にも、実隆本人と関連があるのではないかと疑われる箇所が見られ、更に資料として「虫歌合」も引かれている事などから、黒川文庫本の転写元の資料は、本来、この四冊が一巻になった資料であり、実隆真跡の資料であったと考えられる。また、本書が中世のものである事は、近世の歌論と捉え方の違う部分が見られる事などからも窺える。本書が、本来中世の資料であり、実隆本人と何らかの関わりがある資料であるとすれば、その中に「東山隠士」の「虫歌合」に関する記述が出てくる事は大きな問題となってくる。『虫歌合』については、長嘯子作ではなく中世後期の資料ではないかとする藤井隆氏の説がある。本発表では『小鳥うた合』というお伽草紙異類歌合の新資料を紹介するとともに、『虫歌合』非長嘯子作説にも考察を及ぼしたい。
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従来、「足分船」と題された好色本に関しては「狩野亨吉蔵春書目」(「会本研究」十七号、一九八三年)に載る「風流足分船 西沢一風 五冊 横小」の記録が唯一のものであったが、今回ホノルル美術館蔵リチャード・レインコレクションの古典籍調査の中で全五冊あると考えられる内の一冊『男色足分船』を発見するに至った。本書は西沢一風による男色を題材とした好色本であり、挿絵に春画を含んでいる。これによって『男色蛍火』として一図のみ紹介されてきた本(早川聞多氏『浮世絵春画と男色』河出書房新社、一九九八年)と同一書であることを確認することが出来た。また宝永五年刊『風流三国志』三巻の巻末予告に載る「衆道恋暮桜」が、『後前可笑記』として完成したとする説(長谷川強氏『浮世草子の研究』桜楓社、一九六九年)に対し、本書を考察の対象に加えることで新たな説を提示することが可能となった。
本発表では「衆道恋暮桜」が『男色足分船』として刊行された成立過程を明らかにする。その論証として目録題や序題など諸題の表記の一致や、『男色十寸鏡』を介して『風流三国志』と男色に関する記述の類似が確認できる点などを挙げる。また作中人物に役者を投影させる方法や、先行する男色物との関連性などにも注目し、好色本における本書の位置付けについても言及していきたい。
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『好色五人女』はモデル小説とされているが、その実説とされるものには具体性を欠くものや不明確なものが少なくない。特に巻四「恋草からげし八百屋物語」の八百屋お七に関しては『天和笑委集』『近世江戸著聞集』等において様々な面で食い違いを見せている。こうした実説を精査された黒木喬氏は『お七火事の謎を解く』において「『好色五人女』の文学的な価値については、門外漢の私には判断できない。ただこの作品がなかったならば、私は八百屋お七の存在を否定したであろう。」と述べておられる。既に発表した「『好色五人女』序説」以来長年この問題に関心を持ってきた小生としても、氏と同様の観点からの考察を試みたい。
今回の発表では第一に『近世江戸著聞集』のみならず、『天和笑委集』も史実を正確に記したものではなくその記載を実説とするのは誤りであることを『御仕置裁許帳』などを手掛かりに論証したい。次いで『五人女』の内部徴証からもこの物語が事実に基づくものであるとは言い難い点について考察する。時間が許せば八百屋お七が実在の人物とされるに至った経緯について、恐らくはこれが歌舞伎・浄瑠璃に仕組まれて以後のことではないかと言う論点から報告したい。
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馬琴は、演劇が人情の描写を優先するために、しばしば「勧懲」が不徹底であると批判している。一方で、読本の人情や忠臣孝子の行状の描写に、演劇的表現が有用であるとも述べている。矛盾するようだが、実はそうではないことを『三七全伝南柯夢』『旬殿実実記』『松浦佐用媛石魂録』等の分析を通して確認したい。
読本に有用な演劇的表現とは、具体的には、愁嘆場の義理と人情の葛藤の描写であると考えられる。感情のままに行動せず、道義に従わなければと揺れ動く心の葛藤が描かれ、かつその葛藤が忠臣孝子ゆえのものである点において、愁嘆場の人情を「勧懲」に適ったものとして、馬琴は限定的に評価しているのである。それは、馬琴読本における演劇の愁嘆場の利用が、特定の作品に取材するのみならず、一定の型としても多く見られることから確認できる。その際、馬琴は、対立概念としての「義理」「人情」の代わりに、「公道」「人情」の語を用いている。「公道」は守るべき道義であるが、特に主命に従う忠義、「人情」は恩愛を指す。葛藤の末、人情に流されがちな演劇に対し、馬琴は「公道」をまず優先し、加えて「公道」と「人情」が共に全うされることを最善とするのである。
馬琴は、演劇の愁嘆場を利用し、より「勧懲」に適う設定に修正することで、読本における理想的な「人情」の描写にしているといえる。
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天保六年に病死した一子興継の追悼記として編まれた『後の為乃記』において、馬琴は易や五行の原理によって興継の死に至る滝沢家の一連の不幸の必然性を見出そうとしている。彼が卜占に多大な関心を寄せていたことは、文政・天保期における、『通徳類情』『協紀弁方』『崇正通書』『三才発秘』などの占いの書の繙読、及び『迎福南鍼録』という方位選択の手引書の著述計画からでもその一端が窺われる。また、この時期に執筆された馬琴読本にも、こうした卜占への強い関心が反映されている。
本発表ではまず文政末年から天保初期までの馬琴書簡に当たって上記の占いの書の入手・披見を確認した上で、『開巻驚奇侠客伝』第一集(天保三年刊)の妙算尼の占いをはじめ、同第三集(天保五年刊)の姑摩姫の八字講釈など、読本の執筆にもこれらの書物が利用されていることを指摘する。一方、随筆の類に開陳される吉凶禍福をめぐる馬琴の言説・解釈の、読本の創作における応用の例として、『燕石雑志』(文化六年刊)「奇異」の弁と『南総里見八犬伝』第百五十回(天保十年執筆)の足利義政に対する一休和尚の説諭との関連などを取り上げて考察する。そして易や五行を、あくまでも合理的に論じる立場から、やがて人の運命を支配する原理と考えるに至る、馬琴の吉凶観の展開をたどり、その変化の背景に『後の為乃記』から窺われる、興継の死を経験した晩年の馬琴の境遇があることを指摘する。
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合巻に描かれた「朝顔」図像を分析して、草双紙における「朝顔」の示す表徴性を実証的に考察したい。江戸期文学における「朝顔」ものは文化年間の読本(『朝顔日記』等)に見られ、『生写朝顔話』等の浄瑠璃・歌舞伎、さらに園芸としての「変化朝顔」育成ブームによる影響を受けて大きく発達する。そして草双紙ではそれらにやや遅れて、天保から嘉永期に多くの「朝顔」図像が見られるようになる。
草双紙における「朝顔」図像の人気には、草双紙最大のベストセラー『偽紫田舎源氏』でのヒロイン達に負うところが大きい。管見の限り、「朝顔」模様を纏う女性の姿は『偐紫田舎源氏』三編の空衣(『源氏物語』での空蝉)が最初であり、以後、菊咲(槿の斎院)を中心として、紫(紫の上)や磯菜(秋好中宮)、玉葛(玉蔓)の衣裳に用いられ、やがて多くの草双紙のヒロインたちの身を飾っていく。「朝顔」の図柄を纏うヒロインに共通するのは、若さと美しさのみならず、歌を詠み、音曲に秀で、高い矜持を持つというイメージで、ヒロインの境遇によって「朝顔」画像が選択されて使われていく。たとえばヒロインが貧しく出自の分からない場合には「朝顔」模様は用いられず、その隠された高貴性が顕れてから「朝顔」模様が用いられもするのである。発表では草双紙におけるさまざまな「朝顔」の図像の用い方を紹介し、それらの持つ共通イメージを探っていく。
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曲亭馬琴の伝記として、江戸時代の馬琴自作のもの、それから明治以降の近現代になってからのものとか、いろいろなものが伝わっている。そのなかで、岳亭定岡(八島定岡)著『狂歌現在奇人譚』後編上巻(文政七年〈一八二四〉閏八月跋、江戸大坂屋茂吉刊)に載る馬琴の逸話は、なかなか面白いものである。今まで私は、『狂歌現在奇人譚』の作者岳亭定岡が耳にした噂、風聞を、おもしろおかしく仕立てたものか、あるいはまったくの作り話だと思っていたが、このたびその出典が明らかになった。それは、馬琴が自作の漢詩・和歌・狂詩・狂歌・発句を集録した『自撰自集雑稿』(文政七年夏成)という自選集(アンソロジー)であった。『自撰自集雑稿』については、早く森銑三氏が「曲亭馬琴の自撰自集雑稿」(『國學院雜誌』昭和十一年九・十・十二月號、『森銑三著作集 第一巻』昭和四五年収録)という一文で取り上げておられ、「古典文庫 未刊文藝資料 第一期2」において『曲亭馬琴家集』上下(安藤菊二氏翻刻、昭和二六年)として翻刻されている。私は静嘉堂文庫所蔵の石川畳翠(馬琴の四友の内の一人、三千石の旗本)旧蔵本に基づいた。よって、『狂歌現在奇人譚』に載る「○曲亭馬琴の伝」を紹介し、考察してみることにする。岳亭定岡と馬琴の関係、『狂歌現在奇人譚』の内容の信憑性、『自撰自集雑稿』の再検討といったことについても、話を及ぼしたい。
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由井正雪のいわゆる慶安事件を題材にした実録体小説『慶安太平記』は、他の実録体小説同様、江戸時代の出版取り締まり制度の為、写本のまま流布するしか流通方法を持たなかった。それは個人から個人へというパターンもあれば、貸本屋を通して読者の手に届く事もあったが、京都本屋仲間の『禁書目録』に掲載され、名古屋の貸本屋大惣が五部も所蔵していたことなどから見ると、かなり読まれていたと想像される。しかし具体的には、日本中どの地域まで流通し、またどのような読者を得たのであろうか。このような読書事情を探り、『慶安太平記』の享受内容をすこしでも究明するため、本発表で同書の分布地図(現存本だけでなく、江戸時代の蔵書目録に出てくる場合も入れて)を提出し、読者論を試みたい。同分布図では本書が蝦夷から九州まで流布したこと、また所蔵者も藩主から農民までという広い範囲に及んでいたことを提示する。
なおそれと関連して、禁書写本に対する読者の読書態度や動機が不明である現状に顧み、江戸期写本と明治初期活字版を比較し、その相違点の意味を探りたい。すなわち由井正雪は、江戸期写本では反乱者として取り扱われ、明治期活字版では英雄化されている理由であるが、宮武外骨によれば実録体小説の読者が倒幕者であったとするものの、はたしてそう断定できるのか、考えてみたい。
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『内侍所』は、はやく野間光辰氏による論考が備わり、よく知られている。都の錦の作であり、のちに赤穂義士実録の主要作『赤穂精義内侍所』に発展する作品である。
このたび紹介・報告する『内侍所』の一本は、少々珍しいカタカナ本である。漢字の書体は楷書で、一字一字丁寧に記された筆写本である。瞥見する限りでは、本文の筆蹟に思い当たるところはない。ところが、その識語に、「
本発表では、複数の筆蹟が混在する本資料を詳細に考証して、その結論として都の錦自筆との推定に至ることとする。さらに、太平記の摂取を手がかりにして、本作の意義にも言及したい。
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近松門左衛門作の浄瑠璃『賀古教信七墓廻』は、『外題年鑑』には元禄十五年七月十五日上演とあるが、本作が「惨酷無惨で奇怪極まる幼稚な作品」であること、また、竹本義太夫在名奥書を有する正本の存在から、元禄五年あたりの上演も含みとして残されている(『正本近松全集』第四巻解説)。一方、原道生氏は、やつしという観点から「意外に新しい要素の混在」を指摘され、元禄中期以降ではなかろうかとの提言をなされた(「竹本筑後掾の死」、「近松全集 月報9」)。
本発表では、高野辰之氏が『江戸文学史』で指摘された近松作の歌舞伎『あみだが池新寺町』との関連から、その上演(元禄十二年十月)以降であろうことを確認した上で、さらにその範囲を限定してみたい。序開きに相当する第一の冒頭に見える「其比大内御造営」「大内の御ふしん大半成就」、あるいは「去年より在京有」といった文言を、宝永五年の大火によって炎上した内裏の造営との関わりで捉える可能性について検討するものである。その際、第三の神崎の揚屋の場において、「私則尼崎のかごの者」として登場した民部の省が尼崎までの人歩に雇われようとするが、近松の浄瑠璃作品に見られる尼崎という地の取り上げられ方なども参考にしたい。
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明治六年に生まれ、昭和十四年六十六歳で亡くなるまで、明治・大正・昭和の三代にわたって、常に現役の作家だった泉鏡花の読書体験の初めは、母鈴が江戸から持ち込み大切にした草双紙の〈絵解き〉だった。鈴は、加賀藩の抱えの江戸詰能役者で、代々〓野流大鼓師の娘、幕府瓦解の直前、一家で金沢に移住する。幼い鏡花(鏡太郎)は、うるさがる母親を捉えてその〈絵解き〉をせがみ、それが叶わない時は、父清次が彫金師だったこともあり、口絵や挿絵を透写する程熱中する。この時の幸せな体験は、九歳で母親を亡くした鏡花の心の中で、その思い出と共にいつまでも生き続け、作品に大きな影響を与えている。
母系社会といわれる日本の文学にとって、母恋いは、古くからの大きな主題のようだが、西欧流の進歩や繁栄を目指して進んだ近代に生きる子供達にとっても、失われてゆくもの・既にないものへの憧れは、母恋いの切ない思いとともに、まるでその時々の時代の郷愁のように、子供達の心を捉え、またあらたな文化・文学を生んでゆく。草双紙・絵草紙をキーワードに、明治・大正・昭和を生きた鏡花をはじめ、有本芳水や三木露風・竹久夢二などの幼い純な心の中をのぞいてみたい。そしてまた、かつてはまぎれもない子供だった私たちの心の中も。
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黄檗派の詩僧大潮元皓(一六七八―一七六八)の言語生活について報告する。
大潮が学んだ唐話の師は國思靖で、同門の俊秀に岡嶋冠山・雨森芳洲・盧草拙らの儒者および慧通・天産らの僧侶がいた。大潮は黄檗通事として、冠山は唐通事としての通訳の経験をもち、同じく二人は荻生徂徠の「訳社」の講師をつとめた。すなわち両者とも〈唐話〉をとおして古文辞という時代の学問・文芸思潮にかかわった。
大潮の行跡については石崎又造氏『近世日本に於ける支那俗語文学史』(昭和十五年)をはじめ川頭芳雄氏、高橋博巳氏らの調査・論考がある。それらは元文五年刊『松浦詩集』三卷、延享元年刊『魯寮詩偈』一卷、同二年刊『魯寮文集』二卷、同五年刊『西溟余稿』五卷、宝暦十一年刊『魯寮尺牘集』二卷などの刊行されたものを主とする。また、賣茶翁こと月海元昭とのかかわりや黄檗僧としての行跡を記す。
本発表では、その後紹介された『瓊浦遊艸』一卷、『魯寮稿』十七卷および書簡等の資料を加え、次のような〈唐話〉を介する言語活動に言及する。
これら三点の具体的な言語生活に焦点をしぼり、冠山の活動との比較を交えながら、大潮の松浦・長崎、京畿・泉南、江戸への遊歴と交遊をたどり、感性のおもむくままの心情を表現する詩を記す晩年の変化についても吟味を試みたい。