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都賀庭鐘『英草紙』に収められる作品の大半は、中国短篇白話小説集「三言二拍」所収作品を粉本としており、そのうち四篇(第二・三・四・九篇)の粉本は「三言二拍」の選集である『今古奇観』にも収録されている。『英草紙』における「三言二拍」と『今古奇観』の使い分けについては、すでに『日本古典文学全集』頭注における中村幸彦氏の指摘が備わるが、本発表では、「三言」ならびに『今古奇観』の諸本調査を経て判明した事実に基づいてその再検討を行い、庭鐘の粉本利用法についての私見を提示したい。
『今古奇観』諸本の本文を、『英草紙』第三篇の原話である巻十九「兪伯牙◆琴謝知音」を対象に分類し、それらの表現を第三篇の本文と対照させたところ、同文堂本の本文のみが『英草紙』と一致する箇所のあることが確認された。同文堂本の現存数は他の刊本に比して格段に多く、あるいは流布本であったのかもしれない。以上の理由より、庭鐘の利用した『今古奇観』は同文堂本であった可能性が高い。これは『全集』頭注において利用された『今古奇観』とは異なる本文を有する刊本である。
また、第三篇には同文堂本『今古奇観』のみならず『警世通言』をも利用した跡が見られるが、それは庭鐘が「三言」と『今古奇観』の校合を行っていたことを示している。その上で、それぞれがどのようにして使い分けられているかを検討することで、庭鐘の翻案手法の一端を明らかにしたい。
※◆はてへんに率
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馬琴の長編読本『近世説美少年録』は、外題を書肆に与えられ、執筆を請われた作品である。構想に悩んだ馬琴は、丁度知友に借りていた中国白話小説『檮◆間評』の利用を決める。
だが、馬琴自身、「『檮◆』の方、『美少年録』の書名ニは不都合」と書翰に書くように、『檮◆間評』の登場人物には美少年的要素が少ない。『檮◆間評』のほぼ忠実な翻案といわれる前半の中心人物、特に悪少年の朱之介(後の陶晴賢)を美少年として造型する際に、馬琴の工夫があったと考えられよう。
右の問題点をふまえ、本発表では、中国の艶情小説『肉蒲団』と『美少年録』及び続編『新局玉石童子訓』との関連を指摘する。李漁作『肉蒲団』は、一人の美青年が数々の好色的経験をする筋で、宝永二年には和刻本(四巻二十回四冊)が刊行され、馬琴も『肉蒲団』を閲していた。具体的な関連として、T朱之介や周辺人物の人物造型、U物語の趣向及び場面展開、V『美少年録』から『玉石童子訓』にかかる物語の構成(大枠)、W『玉石童子訓』における「隠微」に着目する。『肉蒲団』との共通点や差異を確認し、『美少年録』『玉石童子訓』には様々なレベルで『肉蒲団』からの影響が見えることを述べる。
結果、主たる典拠『檮◆間評』に看取できない『美少年録』の人物造型や趣向、物語構成が、『肉蒲団』を利用して描かれていることが明らかになる。その上で、『玉石童子訓』の「隠微」と『肉蒲団』の「主意」とが通ずることにも触れたい。
※◆はてへんに兀
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浅見絅斎の『常話雑記』(『随筆百花苑』第五巻所収)は、宝永二年から六年にかけての談話筆記であるが、その内に中国白話小説に関する記載がある。一は、「蔡小姐忍辱報仇」(『醒世恒言』第三十六巻、『今古奇観』第二十六巻)の荒筋を語ったものだと認められる。そうとすれば、これは荻生徂徠や伊藤東涯と並ぶ、非常に早い白話小説への言及である。そして、その読み取り方には、如何にも闇斎学者らしい名分論に基づくものが見出される。
また、この『常話雑記』の内で、絅斎は、たびたび『水滸伝』に言及している。それらは、珍しい語彙や白話語彙に就いてのものが多いが、言っていることは正鵠を射ている。そして、これらの言及も、徂徠や東涯に勝るとも劣らない、早い時期でのものである。『三国演義』に関する言及さえある。
しかも、そうした言及は、単に早いのみならず、固い道徳学である闇斎学に従事する者が、本来、まともに相手にすべきではない稗史小説を語っているものとして驚かされる底のものなのである。
絅斎がこのように中国白話小説を読むのは、勿論、慰藉を求めてである。が、同時に徂徠や東涯、中んづく同じ京都で講学している東涯の読書の新しさや博さをも意識しての事であったろう。
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『名女情比』(五巻五冊・延宝九年正月刊)は「情」をテーマとした作品である。巻四までは恋歌を中心とした高貴な女性の話であるが、巻五からは近世遊女の話を掲出し、計三十四話の話を収めている。先に発表者は拙論(「『名女情比』考」『国文』・百十五号・二〇一一)において、『名女情比』は『伊勢物語』及び『闕疑抄』を受容していることを確認している。今回は作者の問題の解明を図りたい。
『名女情比』の序文末に「落葉堂の好色軒」とあるが、誰のことなのか、定かではない。朝倉治彦氏は『名女情比』と『好色袖鑑』が同一作者による可能性を指摘された(未刊国文資料『未刊仮名草子集研究(一)』解説)。『好色袖鑑』(二巻二冊・天和二年二月刊)は、問答体を借りて恋愛道を教訓的に語った作品である。その作者について、吉田幸一氏は吉田半兵衛(江戸初期の京都浮世絵師・生没年不詳)ではないかと推測されている(近世文芸資料第十『好色物草子集』解説)。
そうした先行研究を受け、本発表では、まず具体的に本文などを比較して、『名女情比』と『好色袖鑑』とが同一作者の手によることを検証したい。さらに、坂内山雲子作『伊勢物語』の注釈書である『頭書新抄伊勢物語よみくせ付』(大本二冊・ 延宝二年五月刊)を視野に入れ、『名女情比』と『好色袖鑑』の関連性について触れてみたい。
※◆は羽に廾
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西鶴浮世草子において『新可笑記』(元禄元年十一月刊)は評価の低い作品であるが、特に巻五の二「見れば正銘にあらず」は低調とされ、言及されることの少ない章段である。その原因は家老二人の確執を描く前半部と、浪人と目利き者による刀の真贋をめぐる刃傷事件や十年後の目利き者の殺害を描く後半部との関連が一見希薄であり、一つの章段としてのまとまりが見られないことにあると思われる。
発表は巻五の二の再評価を目的とする。巻五の二の構成に関する問題を考えるにあたっては、赤松満祐による嘉吉の乱との関連が重要な手掛かりとなる。すでに、播州赤松家という舞台設定や結末の主殺しが言及されているが、西鶴が参照したとされる具体的な資料の指摘はなされてこなかった。
発表者は巻五の二の素材として伊南芳通『続太平記貍首編』を提示する。そして巻五の二と『続太平記貍首編』との語句や展開の一致、従来顧みられてこなかった家老二人の設定への利用について指摘する。
また、巻五の二の前半部と後半部を繋ぐ重要な要素として「油断」が挙げられる。「油断」は『続太平記貍首編』にも描かれているが、巻五の二では「油断」する人物の設定やその内容に工夫が為されている。そこを起点に、巻五の二の創作意識を明らかにする。
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『炭俵』所収の嵐雪発句に「竹の子や児の歯ぐきのうつくしき」がある。『源氏物語』横笛で幼い薫が「御はの生ひ出づるに食ひ当てむとて、たかうなをつと握り持ちて、しづくもよよと食ひぬらしたまへば……」(新編日本古典文学全集)という場面をふまえたものと言われているが、実は芭蕉にも同じ場面をふまえ詠まれた発句「たかうなや雫もよゝの篠の露」(『続連珠』)がある。両者は共に筍のもつ生命力やみずみずしさを詠んだものであるが、それを子どもの姿で表現した嵐雪句の方が、雫で表現した芭蕉句よりも、効果的に表現できていると言えるのではないか。つまり、ここでの子どもは、単なる愛らしい存在ではなく、筍のもつ生命力やみずみずしさを際立たせるという、一句の演出効果を高めるものとしても機能しているのである。
これ以外にも、嵐雪発句には「出替や幼ごゝろに物あはれ」(『猿蓑』)や「手習の師を車座に花の児」(『雑談集』)など、子どもという素材を詠み込むことで一句の演出効果を高めている例が多いように思われる。
そこで本発表では、嵐雪発句のうち子どもを詠んだ句を取り上げ、子どもという素材が発句の中でどのように詠まれているか、芭蕉や其角らの発句における子どもと比較しながら考察し、嵐雪俳諧の特色を明らかにしたい。
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陽明文庫所蔵一般文書中の「笑話書留」(仮称)を紹介する。
本書は、墨付四丁の仮綴の写本一冊(遊紙四十一丁。紙背は『六百番歌合』)で、十二話の笑話が書き留められたに過ぎないものであるが、筆者が近衛信尹(号三藐院、1565年生〜1614年没)と明らかであること、書写年次が慶長頃と推定され、笑話集としては比較的古い成立であることなど、注目に値する資料と思われる。さらに、本書の話には、大村由己・紹巴・道澄(聖護院門跡・信尹の叔父)など、信尹と直接関わりのある人物が登場する。このことは、本書が書承による書留ではなく、笑話が創作もしくは改編された、笑話誕生の現場における書留であることを示していよう。
かつて野間光辰氏は信尹周辺で仮名草子『犬枕』が創作された可能性を示された(「仮名草子の作者に関する一考察」、『近世作家伝攷』再録)が、同じことが笑話においても確認されたことになる。所収笑話の検討を通して、その当代性・洗練性を指摘するとともに、近世初期堂上文壇における他資料も見渡すことで、笑話と堂上文学との関わりについて言及したい。
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『松染情史秋七草』に「再会の割符」とあるように、馬琴は読本作品において、強い絆で結ばれた男女や親子が別離ののちに再会を果たす際、証拠の品を提示するという趣向をしばしば用いた。
石川秀巳氏は、この趣向が〈巷談もの〉に多くみられることを指摘し、「秩序の回復=団円を促すもの」であると断定された(「〈巷談物〉の構造―馬琴読本と世話浄瑠璃―」『日本文芸の潮流』おうふう、一九九四年一月)。しかし、石川論文ではこの趣向の利用を〈巷談もの〉に限定しながらも、概説的な叙述に止まっており、具体的な検証はなされていない。そこで本発表では、文化期の馬琴読本における「再会の割符」の機能を考察し、馬琴読本の様式的把握における私見を提示したい。
管見の限りでは、『月氷奇縁』から『糸桜春蝶奇縁』までの十五作品に「再会の割符」が認められるが、その利用態度は一様ではない。馬琴は当初、事前に証拠の品の存在に言及せず、再会する場面において、唐突にそれを提示していた。ところが、『四天王剿盗異録』以降は、別離の場面を設け、再会時の感動を際立たせることに成功する。そして、『三七全伝南柯夢』に至っては、抒情性を演出するだけでなく、緊迫する事態を円満に解決させ、物語を団円へと導く。このように、「再会の割符」の系譜を辿ることで、馬琴読本における個別の趣向が、小説的機能を有するまでの過程が明らかになるのである。
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『椿説弓張月』では、主人公為朝が流れ着いた琉球国の「◆の珠」が紛失する危機が描かれる。「◆の珠」は、作中で日本の「三種の神器」と同じ意味を持つとされ、馬琴が力を入れて描いていることからも重要な意味を持つと考えられる。
馬琴の時代には、すでに、一方では『海国兵談』の刊行などで対外意識が高まり、他方では「神器」に対する議論が注目されていた。国学では本居宣長が『古事記伝』において師の真淵説を批判し、また、水戸彰考館では神器の保有と皇位の正統が論じられていた。
当時の時代認識や「神器」に対する議論を踏まえて、改めて『椿説弓張月』を検討した。馬琴は、「◆の珠」が失われる過程を描くことで、「神器」が国そのものをあらわし、「神器」が正常に継承されることが国家の安泰であることを示している。「神器」の紛失は国の乱れであるが、その回復により自覚された強い皇位の継承が実現することを描いている。
作中の琉球王朝は、神器なき皇位継承を乗り越えて継続された日本の歴史の縮図のように描かれている。馬琴は、「神器」の概念を作品において具体化することにより、「神器」に象徴される国とそれを守る者としての皇位の意義を示している。『椿説弓張月』では、神器の継承を通して皇位と国の意味が描かれ、それを受けての武士のありかたが為朝を通して描かれている。
※◆は虫+「礼」のつくり
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近時、中野三敏氏が、享保七寅年の出版に関する御触書は取締令ではないとされたのは卓見である。しかし天保改革時の出版取締令は、正に取締令であった。その実相の一端を見ていく。
ここに間に合わせの表紙に朱の打付書きで「孝子顕彰」と記し、孝子孝女の読売ふうの記事二十話(短い話は半紙一丁、長いもので三丁)を綴じ合わせたものがある。同種の「賞孝記事」(仮題)という綴じ合わせが、西尾市岩瀬文庫にも蔵されている(勝又基氏御教示)。こちらも二十話で、十七話は「孝子顕彰」と重複している。内容は、その大部分が、天保十二、三年に、江戸または代官所支配地の孝行者を奉行所が褒賞したというものである。こうした記事が事実であるのかどうかということについて、『御触書集覽 修身孝義鑑』(中本)に即くことによって半数ほどの確認ができた。
ところで、この『御触書集覽 修身孝義鑑』(岡村屋庄助刊)という本には、刊年は記されていないが、記載内容からして天保十四年正月以降の刊行と思われる。さらにこの天保十四年に出板された読本は、島定賢作『日本廿四孝子伝』五巻五冊ほか数点(『日本小説年表』)だけである。天保改革の出版取締のため、この時期、書肆は孝子ものぐらいしか出板できなかったのである。ちなみに国芳の「二十四孝童子鑑」のシリーズも、まさにこの時に、取締令を契機として出板されたのである。
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『春雨物語』「天津処女」後半における宗貞出家譚は『大和物語』を典拠にしているが、そこに出る和歌は、秋成自身の校訂版本とは異なる。というよりも、現在知られているどの本文とも一致しない。また、『春雨物語』と時期的にも内容的にも深い関係を持つ「鴛央行」に引かれた漢字表記による万葉集本文は、実は秋成自身の語源解釈に基づく創作的表記というべきものである。こういう例を考えていくと、この時期の秋成は、典拠を手元に置かず記憶で書いた、というだけでなく、もう少し進んだところで、新しい古典本文を作り上げようとしていたのではないかと思えてくる。「天津処女」の宗貞説話と『大和物語』の当該章段を比較したとき、秋成の方に軍配を上げたいと思うのは、たぶん身びいきだけではないはずである。
こうした新しい本文創作への意識を根底に置いて書かれた『春雨物語』前半の「歴史小説」群に通底しているのは、「花にのみうつり栄ゆる」(「天津処女」)時代への違和感と、その結果としてもたらされた堂上歌学衰退状況の確認である。そこから反転して、万葉時代への憧憬を根底においた秋成的現在の肯定に至るプロセスが後半の「社会小説」を貫くテーマであろう。
以上のような観点に立って、『春雨物語』全体を貫くものがなんであるかを、できるだけ具体的な例に基づいて述べてゆきたいと思う。
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(C)日本近世文学会