平成23年度春季大会発表要旨

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1. 『新可笑記』「舟路の難義」における〈隅田川物〉の利用

大阪大学(院)

仲 沙織

『新可笑記』(元禄元年十一月刊)巻四の一「舟路の難義」の内容は次の通りである。遊里通いを止められない代官に妻が激しく嫉妬し、遊里へ向かう船上で娘を出産して亡くなる。その顛末を祝言前に知った娘が母親を慕って狂乱するが、神子による口寄せで母親の怒りの言葉を聞き、母親を恨んで正気に戻る。

金井寅之助氏は本章段を、前半部の母親と後半部の娘との二つの話が組み合わされたものとし、「話に統一がな」いと指摘された(『西鶴考』一九八九年)。しかし〈隅田川物〉を通して本章段を捉えると、前半部と後半部との繋がりが明らかになる。〈隅田川物〉とは謡曲「隅田川」を題材とした古浄瑠璃や説経節等をさす。〈隅田川物〉では、謡曲「班女」が「隅田川」の前日譚として捉えられ、「班女」の花子と「隅田川」の母親とが同一人物とされる。花子は恋人の少将を慕って都に向かう狂女、母親は息子の梅若丸を慕って隅田川へ向かう狂女であるから、〈隅田川物〉の母親は二度狂乱していることになる。彼女は、それぞれ異常な執心をもって相手を求める「舟路の難義」の母娘二人の造形に利用されている。本章段には母娘以外にも、隅田川物との関連を少なからず見出すことができる。

「執心深き女」とされる母親だけではなく、娘や父親の執心にも注目しつつ本章段を読解し、それを起点に、従来言及されてこなかった、『新可笑記』に描かれる〈親と子〉の問題にも考察を及ぼす。


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2. 三遊亭円朝「英国孝子之伝」の歌舞伎化

東京大学(院)

日置 貴之

河竹黙阿弥作の歌舞伎「西洋噺日本写絵」(明治十九年一月)は、三遊亭円朝の翻案物人情噺「英国孝子之伝」の脚色である。明治期を代表する名優九代目市川団十郎が演じた唯一の円朝物であるという点でも注目に値する同作品について、庵逧巌氏は大阪での改作上演である「翻訳西洋話」の台本(阪急学園池田文庫蔵)によりその内容を推測し、「近世以来の世話狂言以外の何物でもない」と評した。しかし、庵逧氏が未見と思われる東京大学国文学研究室所蔵の「西洋噺日本写絵」初演台本と池田文庫本「翻訳西洋話」の内容には多くの相違がある。本発表では、両者の比較を通じて以下の指摘を行う。

第一に、「西洋噺日本写絵」から「翻訳西洋話」への改作の過程で、登場人物の性格がより類型化される、脇役の見せ場が増補されるなど、多くの改変が行われ、「近世以来の世話狂言」化されていること。

第二に、「西洋噺日本写絵」は原作にかなり忠実に脚色されており、従来指摘される黙阿弥の話芸脚色の態度を具体的に裏付けるものであるが、大詰における主人公の切腹は、原作以上に自然な演出へと改変されており、「近世以来の世話狂言」の定型を脱していること。

以上二点の指摘により、「西洋噺日本写絵」を正当に評価するとともに、合理的な作品・演出へと向かった東京の大芝居と、趣向・役者の見せ場本位の「近世以来の世話狂言」を上演し続けた大阪の芝居の方向性の相違をも明らかにする。


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3. 『太平記忠臣講釈』と「水滸伝」

立命館大学(院)

周(しゆう) 萍(へい)

『忠臣水滸伝』第十回に登場する天川屋義平に使われた趣向は、主に「水滸伝」の魯智深と、『日本花赤穂塩竈』の義平に由来する。しかし、義平のイメージに関する描写は、「かの宋代の豪傑九紋龍史太郎が為人をしたひて、背上に雲竜の花繍を刺ける」とあり、義平を「水滸伝」の九紋龍史進に譬えている。それなのに、史進の趣向、或いは武芸による活躍は、『忠臣水滸伝』の義平に取り入れていない。なぜ山東京伝が突如義平に史進のイメージを持ち込んだのか、という問題はいまだ解明されていない。ところが、『忠臣水滸伝』に影響を与えた『太平記忠臣講釈』の義平と、「水滸伝」の史進とを比べてみると、両者に共通するところが多くて、『太平記忠臣講釈』の義平が「水滸伝」の史進の書き替えである可能性が高いとわかった。また『太平記忠臣講釈』と金聖嘆本「水滸伝」が、構成においても相似しているところがあると判明した。近松半二が、「水滸伝」の史進を天川屋義平に書き替え、「水滸伝」の本文の導入部と金聖嘆本「水滸伝」の最後の夢に習って、『太平記忠臣講釈』の発端と義平の夢を考案したと思われる。明和三年に創作された『太平記忠臣講釈』は、「水滸伝」の趣向、及び部分的な構成を用いることにおいて、「水滸伝」の最初の翻案作品とも言われている『湘中八雄伝』(明和五年)よりも早かったのである。


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4. 心中禁止令と八百屋心中について

矢野 公和

享保八年二月に発令された所謂心中禁止令に関して『江戸時代三都出版法大概――文学史・出版史のために』において山本秀樹氏は、これが前年の六月に大坂で出された二つの「口達」を受けたものであり、「この双紙出版禁令は具体的事件への対応として突発的に出されたものである」としておられる。ここで想定されているこの件の発端となった大坂での事件が享保七年四月六日の八百屋半兵衛お千代の所謂「八百屋心中」ではないかというのが本発表の骨子である。

紀海音「心中二ッ腹帯」・近松門左衛門「心中宵庚申」に取り上げられたこの事件は、歌舞伎にも仕組まれて京都嵐三十郎座・江戸中村座などでも上演されいずれも大当たりであったという。この事件は後に川柳にも詠まれるほどに人々の関心を集めており、万象亭『反古篭』には海音の作がヒットしたので、千日に石碑を建てて供養したところ激怒した八百屋が芝居の前へ建て直させたが、それがまた評判になって大入りになったとの記事がある。委細に関しては不明であるが、浄瑠璃・歌舞伎が三都で爆発的に大流行したこの事件が地元の大坂で何らかのトラブルを引き起こしたことは想像に難くない。これが元で大坂の「口達」が出され、江戸に回されて翌年の心中禁止令に発展したのではないかというのが私見である。猶、心中事件を戯曲化したり出版するだけでなく、心中そのものを禁止するに至った経緯についても併せて考察したいと考えている。


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5. 田中江南『唐後詩絶句解国字解』について
―古文辞派の詩の読み方―

日本学術振興会特別研究員

高山 大毅

古文辞派の漢詩理解を考える際、荻生徂徠が自ら明詩を注解した『絶句解』(享保十七年刊)は、第一に依拠すべき文献である。しかし、平易とは言い難い注釈であるため、従来の研究では十分に活用されてこなかった。本発表では、田中江南『唐後詩絶句解国字解』(安永六年刊)が、以下見るような点で『絶句解』の優れた解説書であることを明らかにし、本書を手掛かりに古文辞派の文学を再考したい。

先ず、服部南郭「五七絶句解序」に対する江南の注釈を検討する。江南は晦渋な南郭の議論を、徂徠の『経子史要覧』の説を参照しながら解説する。南郭の文から彼が導き出すのは、詩は本来、「実情」を「アラハ(アラハ服)ニ」語らないという主張である。「比」(比喩)や「興」(想起に基づく表現)といった表現技法によって、「本意」は詩の言外に隠されている。よって、詩の解釈においては「趣向」の解読が決定的な鍵となると江南は説く。

続いて、江南の「趣向」解釈の実例を見る。『絶句解』の徂徠の注釈には唐突に詩の寓意を説くものがある。江南は、的確な典拠を挙げ、徂徠の解釈の背景にあった「比興」の読み解きを再現して見せる。また、彼は「縁語」や「カケ(掛け)」といった語によって、古文辞派の修辞を説明する。これは、藤原定家と古文辞派の間に類似性を認める徂徠の説と重なる。このような江南の注釈は、「人情主義」といった従来の理解には収まらない古文辞派の文学の重要な側面を照らし出している。


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6. 「日本詩選採択書目」考

石川工業高等専門学校

高島 要

江村北海編の漢詩総集『日本詩選』は詞華選として広く流布した。その編纂には、どのような詩集が用いられたのであろうか。日本詩選には、巻頭に「日本詩選採択書目」があり、一五七種の詩集等の書目が挙げられている。これは、「採択書目」であるが、これらの書目を含めて、日本詩選に採録されている詩(一四一四首)の出処と思われる詩集を、具体的に調査検討してみる。その結果、今判明する限りでの整理では以下のようになる。

○書目の詩集等が、現存資料によって、ほぼ採択対象のものであると思われるもの。『南郭文集』(『南郭先生文集』)、『白石餘稿』(『白石先生餘稿』)などである。

○書目の詩集等が、現存資料によって、それが採択対象のものに近いものと思われるもの。『琴所遺稿』(『琴所山人稿刪』)、『邀翠館集』(『邀翠館詩集』)、『孔雀楼集』(『孔雀楼文集』)などである。

○書目には挙げられているが、その詩集と思われる現存資料で、日本詩選の収録作品が確認できないもの。『釣虚弄筆』、『唐翁詩集』、『鎌倉紀行』、『帰鞍吟草』などである。

○書目に挙げられていないが、現存資料の詩集が、「採択」の際に用いられたと思われるもの。『観海先生集』、『華陽先生文集』、『抱関集』などである。

「日本詩選採択書目」は、採択書目としては掲げるべきではないと思われる詩集書目を含む。それらは、編纂の際の何らかの参考資料といってよいものか。逆に、採択書目として掲げるべきであったと思われるいくつかの書目を脱している。「採択書目」の注には「序跋具ヘザル者ハ、篇章多シト雖モ、概ネ標挙セズ」という断りはあるが、それだけではない。「採択書目」のほかに、相当に広範囲の詩集を資料としていると思われる。日本詩選の編纂に用いられた詩集資料の実態に可能な限り近づきたい。


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7. 『甲陽軍鑑』における人物像の形成とその波及
  ―玉縄北条氏と北条氏長に関連して―

お茶の水女子大学(院)

森 暁子

武田流の軍書『甲陽軍鑑』の、後続の作品に与えた影響は大きい。登場する人物のイメージは後世に連綿と受け継がれており、近世の武将像の形成に一役買っているといえる。同書には、後北条氏に関わる話題も頻出するが、その家臣の玉縄北条氏の活躍の記事が所々に目立っている。これは後に武辺咄等で取り上げられるところとなっており、同書中で注目された話題の一つであることがうかがえる。

さて、山本英二氏は小幡景憲が『甲陽軍鑑』の書写のみならず編纂まで行っていたと推測し、同書の主要な場面に初鹿野一族が登場するのを、初鹿野伝右衛門が彼の取材源の一人であったためとみている(「史実としての家康説話集」「江戸文学」三十九号)。同様に考えると、玉縄北条氏関連の記事の多さは、その直系の子孫である幕臣の北条氏長が、景憲門下の兵学者であったことと関係があるのではないだろうか。

本発表では『甲陽軍鑑』における玉縄北条氏の話題と、『師鑑鈔』等氏長の著作との関連を探り、同書における人物像の形成について考える。その上で、後続の武辺咄や軍記における玉縄北条氏の話題の受容の様子を示し、さらに、話題の波及においてそれらの作品が果たした役割についても考察する。以上の流れを追うことで、武将に関する話題の選別・改変の特徴と興味の方向を捉え、軍書の利用の手法の一端を見出すこととする。


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8. 『本朝水滸伝』におけるえみし(えみし滸)について

お茶の水女子大学(院)

渡邉 さやか

建部綾足『本朝水滸伝』(前編安永二刊、後編未刊〈安永二以前に成立〉)後編第三十一条〜第三十五条には千島の主カムイボンデントビカラ(以下、トビカラ)を中心とする複数の蝦夷が登場する。第一に、これらの蝦夷が近世のアイヌ風俗を反映して書かれていると認められる点に関して述べる。

第二にトビカラ像成立の背景について考察を行う。すでに谷澤尚一氏により、綾足が松前広長からアイヌ「トビカライン」の話を聞き、参考にしたとの指摘がなされている。しかし、「高麗白主」という和人でありながら罪を得て千島に渡り、蝦夷のふりをして蝦夷の教化を行っていたトビカラ像には寛文期ごろから文芸モチーフとして流行した義経島渡伝説における義経像の影響が見られる。一方で、トビカラが押勝の軍門に下るための方便ではあるが配下の蝦夷を率いて和人に対し蜂起する点は、寛文蝦夷蜂起を起こしたシャクシャイン像を想起させる。義経島渡伝説、寛文蝦夷蜂起は、どちらも綾足の父喜多村校尉政方が編纂にかかわったとされる『津軽一統志』に取り上げられており、この書の影響を受けて義経、シャクシャインもトビカラ像の参考にされたと推察できる。

最後に「トビカラの正体はなぜ和人でなければならなかったのか」という疑問を手がかりに、王権を頂点とする和人の階層および秩序に連帯の形で異族が組み込まれていく本作の構造上の一面についても考察を行いたい。


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9. 『双蝶記』の輪郭

国文学研究資料館

大高 洋司

山東京伝の最後の読本である『双蝶記』(文化十年〈一八一三〉九月刊)については、従来その評価を低める一因として内容の複雑さが指摘されてきた。発表者は、拙論(「『双蝶記』の明暗」、「読本研究」十・上、一九九六・十一)において、「双蝶」とは登場人物である小蝶・蝶吉の姉弟を指すとし、また近時は本作を小蝶・蝶吉を〈読本的枠組〉とする〈一代記もの〉との私見も公にした(『読本事典』、二〇〇八)が、この機会に拙論の認識を一部修正し、新たな研究の展開に備えたい。

本作の〈読本的枠組〉は、小蝶を取り巻く挿話では、京伝読本『昔話稲妻表紙』(文化三年〈一八〇六〉十二月刊)の長谷部雲六を踏まえた鮒尾賀堂左衛門の存在、蝶吉を取り巻く挿話では、鎌倉方(月影ヶ谷家・山咲家)及び五大院宗繁家に敵対して変幻自在に出没する相模次郎時行とその家臣(大仏九郎貞直・更級夫婦)に求められる。

そのように了解すると、本作は仇討・伝説・巷談・史伝・お家・一代記といった〈稗史もの〉読本の〈型〉のどれかに当てはまるものではなく、京伝が「必後のよみ本の面目を改むへけれ」(『江戸作者部類』)と語ったというように、その全ての要素を渾然と備えて新たな地点に踏み出そうとする意欲作であったことが見えてくる。『双蝶記』の一名「霧籬物語」とは、〈稗史もの〉読本の新たな方向への試行錯誤として、複数の挿話を横一線に並べて語ろうとする方法を反映した命名であり、口絵部分に紹介された「灯台鬼」説話の意味についても、この観点からの解釈が可能である。


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10. 上田秋成の宗武・実朝をめぐる活動とその周辺
  ―蓬左文庫蔵『田安亜槐御歌』の紹介を兼ねて―

立教大学(院)

高松 亮太

上田秋成が田安宗武の歌集である『天降言』を閲していたばかりでなく、宗武歌を抜粋選定していたことについては近衞典子氏の所蔵にかかる抜粋本の紹介が備わる。だが、近衞氏蔵本のみならず、蓬左文庫に蔵される『田安亜槐御歌』も秋成の宗武歌抜粋という営為を伝える資料として注目されてよい。本発表では、まず該書を紹介するとともに、そこから窺われる人的・物的交流について検討を加える。本書は宗武歌と実朝歌が万葉調であることに触れた秋成の新出奥書(含歌一首)を有する点がまず目を引くが、秋成抜粋本からの沢真風による転写本であるなど、同時代における享受という観点からも注意されるべきであろう。

一方、この宗武歌抜粋と深く関連するのが、『金槐和歌集』の抜粋である。大通寺蔵『金槐和歌集抜萃』は、秋成が真淵の「○」印と評注を持つ貞享版本から書写したものであるとされ(『上田秋成全集』第五巻日野龍夫解題)、巻末に秋成のものと思しき奥書を持つ。だが、『金槐和歌集抜萃』を底本とする大江茂樹撰『和歌類葉集』(文化七年序)では同奥書が真淵のものとされるなど情報の錯綜がみられる。そこで、奥書で説かれる見識の検討などを通して、当該奥書が秋成のものである可能性が高いことを確認しつつ、秋成の宗武・実朝評について考察していく。そのうえで、このような一連の宗武・実朝をめぐる活動が、秋成晩年の創作へいかに反映していくかということにも言及したい。


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11. 中島広足と青木永章の長歌

学習院大学(非)

田中 仁

近世後期の和歌を取り巻く状況として、二つの大きな流行現象が存在した。一つは類題和歌集の流行、そして、もう一つが詠史・詠物詩歌の流行である。これらは同時代の和歌のあり方にさまざまな形で影響を及ぼしたが、近世長歌もまたその例外ではなく、近世後期から幕末にかけて詠まれた作品にはそうした時代性を反映したものが少なくない。すなわち、詠史詠物的な内容の長歌が数多く詠まれたのである。

本発表では、幕末の長崎を中心に活躍した二人の国学者・青木永章と中島広足が詠んだ長歌について論じる。永章と広足は、ともに本居大平門下として長年にわたり親しく交友し、大平と同様に長歌の創作にも積極的に取り組んだことで知られている。彼らはそれぞれ自作長歌のみを収録した私家集を独立した一書として刊行(『玉園長歌集』および『橿園長歌集』)しているが、そうしたことは近世において他に例を見ないことである。彼らがいかに長歌を重んじていたかがうかがえる。幕末の長崎という、時代的・地理的条件が重なったところに生じた彼らの長歌は、海外の人々や珍しい舶来動物など、それまでの長歌には見られなかった新たな題材を積極的に取り上げている。近世後期の長歌に見られる題材の多様化という傾向をもっとも明瞭に反映した作品群として注目される。


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12. 付合語から見る『冬の日』の付合

早稲田大学(院)

大城 悦子

芭蕉出座の俳諧は、「匂付」と総称される、前句の余情・風趣に調和し映発される付け方がなされており、同時代の他流の付け方と異なる、とされる。しかし、芭蕉の俳諧は、貞門・談林など他流にも理解されていることから、発表者は、芭蕉出座連句には当時の俳諧師達に広く共有された何らかの解釈の筋道があるのではないか、と考える。

そこで発表者は、芭蕉達が実際に付けた方法はしばらく置き、当時受け入れられていた付合語を手がかりにして芭蕉出座連句の解釈を試みることにより、芭蕉と同時代の人々の解釈を推察してみたい。その解釈に際しては、付合語の直接的照応関係のみを考えるのではなく、付合語を「連想を中継する語」や「句題」と考える方法も採っている。前者は夙に乾裕幸氏が「ぬけ」として指摘されたところと大筋で重なる。後者は、例えば、桐の木高く月さゆる也/門しめてだまつて寝たる面白さの付合を、前句の「さゆる」から『俳諧類船集』所収の「寒」(サムキ(サユル))を想起し、その項に載る付合語「月・独寝(ヒトリネ)・冬の空・あばら屋」などから、付句は「あばら屋の独り寝」を句題とする句である、と解釈する方法である。

本発表では、蕉風開眼の書ともされる『冬の日』を取り上げ、具体例を解釈しながら、同集の付合の特徴を示す。



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13. 松島の夜―『奥の細道』注解―

佐賀大学

井上 敏幸

松島の夜、芭蕉は何を考えていたのか。その答えは、『奥の細道』松島の条の次の一節にある。

江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、風雲の中に旅寝するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。

係助詞「こそ」からみて、「風雲の中に旅寝する」ことが強調され、その結果として、芭蕉は、「あやしきまで妙なる心地がしたのだ」といっていたと思われるが、「風雲の中に旅寝する」の語義が定まらないために、「眺望をほしいままに、いわば大自然の風光のただ中に身をおいて旅寝するのは」といった具合に、強調点が不明なままに訳出されている。芭蕉の「風雲」は、『徒然草』の、「(謝霊運は)心、常に風雲の思ひを観ぜしかば」の「風雲」を踏まえたものだった。『徒然草』の注釈書の中には、このことを「詩文の思ひに時をうつす」と説明しているものもあり、最も簡略にいえば、芭蕉は、詩文の思いの中に旅寝することを、「こそ」でもって強調していたのである。そして、「詩文の思ひに時をうつす」中で、謝霊運の故事を引き出し、雄島の雲居禅師にちなむ霊地松島の「月」を、恵遠法師の霊地廬山の地に重ね、恵遠法師が謝霊運を白蓮社に入れなかったことを踏まえて、「詩文の思ひ」に浸る自分の心の底を見つめ、霊地松島の「月」の光で照らされた自分の心を「あやしきまで妙なる心地はせらるれ」と説明していたのである。それは芭蕉が「詩文」への思いを超えた本心を垣間見た瞬間であったといってよい。


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(C)日本近世文学会