春水の人情本は、中村幸彦氏(「為永春水の手法―立作者的立場―」)や鈴木圭一氏(「瀧亭鯉丈の『浮世床』」)によって、為永連と称される門人達の関与が想定されている。しかしその実態は未だ明らかではない。
本発表は、為永連の実態を明らかにする手掛かりとして仮名遣いに注目した。『梅児譽美』における「い・ひ・ゐ」「え・へ・ゑ」の仮名遣いを含む語を抽出し、全体の傾向を概観した。結果、全編を通して契沖仮名遣いに依拠する傾向が見られた。しかし、各編を比較すると、仮名遣いの用法に揺れが見られた。具体的には、参(まいる・まゐる)、故(ゆへ・ゆゑ)である。初編後編には、契沖仮名遣いに不一致の「まいる」「ゆへ」が、三編四編には、契沖仮名遣いに一致の「まゐる」「ゆゑ」が見られた。これらの語を『辰巳園』でも抽出すると、四編八條までは「まゐる」「ゆゑ」が、四編九條以降は「まいる」「ゆへ」が見られた。両作共に「参」が契沖仮名遣いに一致(あるいは不一致)の時、「故」も同様の傾向を示していた。
本発表は、春水単独作といわれる『梅児譽美』や、『辰巳園』の仮名遣いに見られる特異な分布を明らかにするものであり、門人達の関与を裏付ける可能性を示すものである。また仮名遣いの検討という日本語学からの視点が、為永連のあり方を明らかにする手掛かりの一つとして有効であると考える。
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林鵞峰編『本朝一人一首』が落柿舎の机上に置いてあったことは『嵯峨日記』の冒頭によって知られる。芭蕉と『本朝一人一首』との関係については、すでに先学の指摘があるが、諸注の解説を見ると、芭蕉研究における『本朝一人一首』の意義をめぐって、まだ検討の余地があるようである。
『嵯峨日記』四月二十九日・晦日の条はいわば『本朝一人一首』の読書メモにあたるが、本発表では、その前日である四月二十八日の条に焦点をあて、野村家蔵本(原本所在未詳)を参照しつつ、四月二十五日の条の末尾との比較によって、『嵯峨日記』には本文と自注という二種類の異質な文章が併存し、しかも芭蕉はそれらを意識的に書き分けているのではないかと論じる。次に、「思夢」の話を扱う『本朝一人一首』巻五「夢中謁白太保元相公」に注目し、芭蕉が評釈の手法を好んで用いたのは、『本朝一人一首』の詩評からの影響であろう、という見解を述べる。
以上の指摘を踏まえて、執筆時期が『嵯峨日記』に近い『おくのほそ道』をも俎上に載せる。句評の形式で曽良を紹介した「黒髪山」を取り上げ、鵞峰の詩評の特徴に合致する芭蕉の書き方を分析する。さらに、『おくのほそ道』「立石寺」・「尿前の関」における語句の出典として、『本朝一人一首』巻六「遍照寺翫月」と巻三「在唐観旭法和尚小山」を指摘し、芭蕉と『本朝一人一首』所収の日本漢詩との関わりについて考察したい。
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扇合とは、一般的には左右に分かれて意匠を凝らした扇の優劣を競う遊戯で、しばしばその扇に和歌が添えられたり、歌合を伴ったりする。承平五年(九三五)大納言恒佐扇合が現存最古の催しで、以降宮中を中心に行われるが、近世後期に地下歌人の間で流行する。
近世和歌での扇合の先駆けと考えられる安永八年(一七七九)三島自寛主催の角田川扇合については、盛田帝子氏の「安永天明期江戸歌壇の一側面―「角田川扇合」を手掛かりとして―」(『雅俗』第四号)に詳しい。
本発表では、角田川扇合を含めた近世扇合と現在確認できる平安時代の扇合との比較することで、近世のそれが平安期扇合に直接範を求めたというよりも、平安当時の物合全般に行われていた方法を採用したことを指摘する。
さらに、角田川扇合の諸本と内容に関して、若干の考察を加えた上で、角田川扇合以降の、文政七年(一八二四)清水浜臣主催『泊〓舎扇合』や、嘉永三年(一八五〇)萩原広道判『扇合』、井上文雄歌判・寺山吾鬘扇判『菅家影前扇合』など、その後に行われた複数の和歌での扇合の様式について整理したい。そして、近世和歌での扇合が、扇(洲浜などの作り物がある場合はそれも含む)や歌の優劣を競うだけでなく、扇にまつわる故事や考証などの教養を競う場であり、和文実践の場としても機能していたことを報告する。
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江戸初期(万治〜天和期)の江戸出版界において、所謂江戸版といわれる独特の造本様式の本が存在することに着目し、その文学史的意味についてこれまで調査を続けてきた。従来江戸版はその元版である京版の重版であるという位置付けがされていたが、調査の結果、元版である京都の本屋と江戸版を出版する本屋の関係の在り方、および江戸版を作成する江戸の書肆間の関係から、初期の出版界は京都と江戸で組織的な提携関係が一部に存在したのではないかという見解に至っている。ちなみにこのたび江戸版を作成する中心的存在である松会市郎兵衛の御子孫と連絡をとることができた。松会氏によれば松会家に関する史料は現在伝わっていないが、徳川家に仕えた家柄であること等、松会家に口碑で伝わる内容が書肆松会の事績と複数符合する。さらに松会家は先祖が伊勢出身の商人であることが判明した。この事実をふまえ、これまで江戸版の調査で明らかにしてきた諸点を考え合わせると、江戸初期出版界と伊勢との浅からぬ関係が浮上してきた。上記の江戸と京都の組織的な提携も伊勢商人の活動の一環としてとらえることが可能なのではないかと思われる。ここから初期出版界は伊勢商人が少なからず関与していたのではないかという仮説を提示する。この問題は当時の新たなジャンルの形成や流通の問題にも関係すると思われる。
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都賀庭鐘の『四鳴蝉』(明和八年)は、能・歌舞伎・浄瑠璃を中国の戯曲の形式に則って漢訳した異色の翻訳作品である。本発表では「序」「填詞引」に注目し、『四鳴蝉』を一つの翻訳論及びその実践として読み解くことを試みる。
まず、形式の面から注目すべきは、能及び歌舞伎・浄瑠璃をいずれも等しく元明戯曲の体例に則って訳したことである。『四鳴蝉』に付された「填詞引」において能は「雅樂」と位置づけられる一方、歌舞伎は「俗劇」、浄瑠璃は「俗樂」と定義される。庭鐘は「大抵俗樂。假體於申樂」と主張すると同時に、その「申樂」の起源を雑劇に見出す説を採っている。すなわち、雅なる能と俗なる歌舞伎・浄瑠璃はいずれも中国戯曲の系譜に連なるということになる。一方、梁恵王の故事を引くことで、音楽は世相を反映して移り変わるが、「寛政」の世であれば「世俗之樂」も「古之樂」と変わらないという見方が示される。こうして「雅」である能と「俗」である歌舞伎・浄瑠璃を理論的に等置し、雅俗の交点に中国戯曲を位置づけたのが『四鳴蝉』という作品だといえよう。
また、『四鳴蝉』の文体は、中国戯曲の実作に見られる白話文とは大きく異なる。特に語彙の選択に焦点を当てることで、その文体の特異性を実証的に示しつつ、「填詞引」の「稍及知古文也。若以我意之所欲言者。不換是於彼。則不可謂能作者乎。」との記述に注目し、「古文」との関係から庭鐘の翻訳の実践を検討する。
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武藤禎夫氏は東京落語「二階の間男」(上方落語では「茶漬間男」)の源が『奇談新編』(天保十三年刊、一巻一冊)に見える愚夫譚にあることを指摘された。そして今回、『破睡録』(1742〈朝鮮英祖十八、寛保二〉年頃成立、一巻一冊)なる朝鮮漢文笑話集および、『慵齋叢話』(1525〈朝鮮中宗二十、大永五〉年刊、三巻三冊)なる朝鮮の随筆文集からその新たな類話が確認できた。
そして、これらの類話新資料の発見によって、『奇談新編』の愚夫譚は海彼から伝わってきたものである可能性が新たに見えてきた。とくに、『醒睡笑』(元和九年序、八巻八冊)巻一「鈍副子」第二十一話に見える阿呆婿噺の原話と思われる類話が『慵齋叢話』にも見えることなどから、この随筆文集がいち早く日本にもたらされていた可能性も十分に考えられる。
本発表では、『慵齋叢話』が少なくとも享保八年頃にはすでに日本にもたらされていたことを示す新たな証拠を提示し、もって、落語「二階の間男」の源が『慵齋叢話』にある可能性を論じる。また、その落ちは『豆談語』(安永四年刊、一巻一冊)「帋入」から来た可能性をも合わせて検討する。
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義太夫節の浄瑠璃本は、人形浄瑠璃という演劇の台本であるに留まらず、読み物として広く日本国中に流布したことは既に諸家の説くところである。通し本(いわゆる丸本)の残る作品は六三〇を数えるが、筆者は国内に二二、五九七点を実見している(二〇一〇年一月現在。公共機関三一四。個人一五)。調査はなお進行中であるが、現在把握した限りの国内現存本について作品ごとに集計して、残存点数による順位付けを試みる。
資料は年代の古いものほど残り難く、年代の新しいものほど多く残ると一応は考えられる。しかし右の順位は必ずしも年代順には並ばなかった。これから残存点数の多少は、往時の刊行点数の多少の比率を反映したものと考え、さらに刊行点数の多少は、すなわち往時のひとびとの受容の実態―何を選び、選ばなかったか―を反映したものと推考するのである。
上位作品を元号ごとに集計すると、宝暦・明和期(十八世紀第三四半期)に頂点を示した。また作品内容は、「時代物」がほとんどであった。この集計結果をふまえ、浄瑠璃本の文学的特性―往時のひとびとが「浄瑠璃本といえばこのようなもの」と思い浮かべたであろう姿―を考えてみたい。
また残存点数による順位付けと、上位作品で当該ジャンルを代表させるという方法に基づけば、評者の主観(好悪による選別など)を回避し、客観性を担保することが可能となると考える。右の方法の問題点についても報告し、御批正を仰ぎたい。
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曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』の結末は、「為朝外伝弓張月題詞」に「為公向ふ処将夫驍し。洲民帝と仰ぐこと湯禹の如し」とあるように、源為朝が琉球の為政者となるはずであった。ところが『中山伝信録』などの、王位に就くのは為朝ではなくその息子舜天である、との記述から、馬琴が『弓張月』の構想を執筆途中に変更したことは、先学の指摘がある。
この構想の変更により、最終的に王位に就く為朝の息子舜天丸を、「湯禹」の如く仰がれる人物として描かなければならなくなった。つまり舜天丸の人物造型が重要となるわけだが、彼の造型に関する馬琴の工夫については、従来検証が為されていない。
本発表では、『弓張月』の舜天丸が活躍する曚雲討伐譚に、聖徳太子伝承の影響が看取できることを指摘する。
具体的には、@曚雲の「琉球の珠」打擲、A福禄寿仙からの「兵書」と「矢」の伝授、B為朝が「馬の腹」に隠れて九死に一生を得ること、C舜天丸と聖徳太子の形象の一致、D合戦時における神仙の冥助、E少年武将舜天丸と老武将紀平治の様相、F王位の簒奪者曚雲を神託の「矢」で射ること、G「御剣」を以て曚雲の首を斬ること、H「人魚」の出現、に着目する。
以上、『弓張月』における舜天丸の曚雲討伐譚に、聖徳太子の伝承、特に物部守屋討伐伝承が利用されることを述べる。馬琴は舜天丸に聖徳太子の様相を賦与し、「仁あり義あ」る君主、舜天王を描出しようとしたのである。
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『俊徳麻呂謡曲演義』(振鷺亭主人作、蹄斎北馬画、半紙本五巻五冊、文化五年冬月、江戸西宮弥兵衛・石渡利助刊)という読本がある。本書は従前、文化六年正月刊のものが初印と思われてきたが、最近、高木元氏が、「文化五年冬月」の刊記をもつ本があることを、報告された。恐らくは文化五年冬月(この場合は十二月であろう)に出すつもりで準備していたのだが、冬月中にはほとんど摺刷製本できず、大部分が翌文化六年の正月にずれ込み刊記を改めた、というのが真相ではなかろうか。
この『俊徳麻呂謡曲演義』全五冊分合一冊の校正本が存する。惜しいことに、第一巻の見返しが白紙となっており、第五巻末うしろ表紙見返し、つまり刊記部分が欠けているので、見返しや刊記がどのようになっていたかは分からない。しかし、読本のほぼ全冊の校正本が残存していることはあまりないので、板本と校正本を比較検討することによって、読本の校正がどのようになされたのか、その実態に迫ってみる。まず、本文と口画・挿画は別人によって校正されているので、T本文の校正とU口画・挿画の校正とに分けて見てみる。このことは、本文校正の文字は振鷺亭、口画・挿画の校正の文字は北馬の可能性が高いことを示していよう。以下、詳細については、発表で明らかにする。ただ校正行為ではないが、校正時には、薄墨部分の全部の丁が摺刷されるわけではないことなどは、興味を惹こう。
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『因果物語』には、内容を異にする片仮名本(三巻三冊)と平仮名本(六巻六冊)の二種類がある。片仮名本『因果物語』の咄が、平仮名本の原拠であり、そしてその作者が浅井了意であろうとされている。鈴木正三の「片仮名本」(寛文元年十二月刊)に先行する形で、「平仮名本」は上梓されるのだが、その出版について後発の「片仮名本」には激烈な「平仮名本」批判が展開されている。
江本裕氏は、すでにこうした平仮名本と片仮名本とを比較して考証し、正三側の『因果物語』の状況からアプローチを試みるのだが、片仮名本は「仁王禅を原点とするひたぶるな生き方、教導精神」の吐露と指摘した。対して平仮名本が絵入りで刊行されたことに着目し、「不特定多数の読者を目当てにものされた」と位置づける。平仮名本は、浅井了意における文芸化の始発という。
本発表では、先学の指摘を踏まえつつ、もう一度、平仮名本と片仮名本とを比較し、平仮名本の立場、つまり浅井了意の執筆態度から、片仮名本と平仮名本の「序文」を問い直してみたい。自らが正三の門下であること標榜する一方で、浅井了意の挑発的な改変を観察し、それが、激烈な序文の激しい怒りの原因であったことを問題にし、片仮名本『因果物語』の序文のもつ意味を新たに考えたい。
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『伽婢子』巻三「梅花屏風」は『剪灯余話』の「芙蓉屏記」を原話に戦国乱世に弄ばれた公卿夫妻の身の上に置き換えた物語である。大内義隆の招きに応じて周防山口に下向した中納言藤原基頼は陶晴賢の乱に巻き込まれ、舟を雇って安芸国まで逃れたが、財宝に目のくらんだ舟人の手で夜の海に突き落とされる。芸州能地(広島県三原市幸崎町能地)へ連行された北の方は月明りをたよりに脱出し、夜明けにたどりついたのが「狐崎のかれいの山もと」にある淳和天皇の后に因むという如意輪信仰の尼寺であった。
この発表では「中納言藤原基頼」「狐崎」「淳和天皇の后」の三語を採りあげ考察を掘り下げてみた。その結果、藤原基頼が平安末に実在した持明院基頼(天文年間の備後国に出没するはずのない人物)であること、狐崎が広島県福山市鞆の岬の名であること、如意輪観音を本尊に祀る尼寺の一条が『元亨釈書』十八に載る摂津西宮の摩尼山神呪寺の縁起に基づくこと等が明らかになった。
三語について個別に考察したつもりであるが、終わってみると個別であったはずの三つが自ずと融合して、思いもかけなかった事実を浮びあがらせることとなった。それは中納言藤原基頼卿と北の方とのこの哀話がご当地の実話として備後の鞆に伝わることであり、さらに虚構が実話に変容するカラクリが明らかになったことである。