国学者がものした紀行は、擬古典主義的なもの、つまり古典紀行の模倣とされ、表現の制約を免れ得ないものと解釈されてきたといえよう。ところが、江戸も中頃を過ぎるにつれて、上田秋成「秋山記」に明らかなごとく、和文を駆使して多彩な旅の記事を見事に描いた作品が登場し始める。かかる延長線上に位置し、雅と俗を織り交ぜ国学者紀行の奥行きの深さを感じさせる書が、天保一一年(一八四〇)刊の中島広足『樺島浪風記』大木二巻一冊である。
本書は、広足が長崎の港を出帆し、途次長崎半島南端の樺島沖にて嵐に遭い漂流するも、辛くも一命を得て故郷熊本に帰着するまでの旅の模様を綴ったものであり、風景描写を始めとして、漂流、台風後の長崎の有り様、シーボルト事件発覚の経緯等、多岐に亘る事柄が活写されており、興味深い。しかしながら、従来伝記資料としてのみ活用されてきた憾みがあり、文学史上の位置が明確にされているとはいい難い。
そこで本発表においては、かく多種多様な情報を一書に集成するにあたり広足が依拠した古今の書、ならびに表現手法を考察し、本書が主として紀行文学の祖『土佐日記』を範とした雅文紀行でありながらも、当時愛読された橘南谿「東西遊記』等の通俗書の形式をも柔軟に取り入れつつ著されたもの、つまり雅俗混淆の作品であることを明らかにしたい。
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梅宮大社祀宮にして和学者、有識家でもあった橋本経亮(宝暦五〜文化二年)は上田秋成、小沢蘆庵、藤貞幹、木村蒹葭堂といった上方文人のみならず、遠江の粟日土満、伊勢の本居宣長、本居大平、蒔田必器や、汗戸の谷文晁、曲亭馬琴等にまで及ぶ交遊の広さからも近世中後期の学芸を考える上で看過し得ない人物である。しかるに夙く木村仙秀氏、羽倉敬尚氏による論が備わるものの、従来彼に関しては部分的な言及があるに留まる。
『香果遣珍』と総称される経亮の収集にかかる典籍・書画・文書・器物(模写を含)等約千点にも及ぶコレクション(その大半は慶応義塾図書館蔵、但し未整理)は、彼の学芸上の関心を如実に示すものとして注目されることに加え、当代雅壇の動向を窺う上でも実に有益なものである。当該資料に聞しては羽倉氏の言及があるが、その内容についてはほとんど検討されていない。
本発表ではまず当該コレクションの目録質料を紹介しつつ、その形成過程を巡って、諸書に見える経亮識語や、藤貞幹『蒙斎手簡』・立原翠軒『上京日録』等より窺われる東寺百合文書調査を始めとする彼の諸活動に基いて跡付け、加えて経亮没後に丹後久美浜の豪商稲葉市郎右衛門家に譲渡されるなどといった伝来の問題について整理を行う。上記の考察を通じて当該資料群に関する基礎的な情報を示しながら、経亮の集書活動を巡り、書物の交流という観点からその学芸史上の位置を見定めることを試みたい。
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馬琴の読本『椿説弓張月』、(文化四―八)が『水滸後伝』の影響を受けたことは知られている。『水滸後伝』巻三四・五回には、妖僧・薩頭陀の命を受けた革氏兄弟が日本に援軍を要請し、これに応じた関白が暹羅に攻めてきたことが述べられていて、『水滸後伝』における悪役は薩頭陀・関白の二人になっている。随筆『覊旅漫録』を読む限り、馬琴は『水滸後伝』に登場する関白のことに関心を示していたが、『椿説弓張月』では、薩頭陀に当たる朦雲国師はあるが、関白に当たる人物は見当たらない。『水滸後伝』では二人であった悪役が『椿説弓張月』では、朦雲国師一人に収斂され、悪は巨大化する。一方、『椿説弓張月』には、島津家の琉球侵略に関する明確な言及は避けられているが、「尚寧王」という人物を登場させる等、それを想像させる要素は存在する。また、『椿説弓張月』前篇巻之二には、琉球出身の八町礫紀平治が琉球の地理等を説明し、源為朝と共に商人に扮して渡海する件がある。これは、遅くても文化三年までには流布され始めたと思われる実録『島津琉球軍精記』の中で、琉球渡海の経験を持つ新納武蔵守一氏が、島津家久に琉球の地理等を説明し、商人に扮して再び渡海する件を連想させる。以上のことから、馬琴は、問題になりそうなことを避けながらも、本作品にエキゾチシズムをもたらすことに努めたことが推測される。
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建部綾足の『本朝水滸伝』(安永二年刊)には、「芳野物語」と改題された後印本が存在する。同書は、大坂本屋仲間記録に拠れば、勝尾屋六兵衛の手によって、文化六年に出版されたものという。改題本の存在自体は、すでに『建部綾足全集』に言及があるが、本発表では、これを当時の上方における『本朝水滸伝』の読まれ方を反映するものとして捉え直してみたい。
尾崎雅嘉『群書一覧』(享和二年刊)は『本朝水滸伝』を「吉野物語」として、「物語部」に収録する。この「物語部」は、『伊勢』『落窪』『源氏』などの物語とその諸注釈を掲げ、それらと同列に「本朝水滸伝』を扱っている点に特色がある。こうした、歌書の系譜に連なる「物語書」として「本朝水滸伝』を受容する立場は、その他、書肆の広告などからも窺える。折りからの『水滸伝』流行もあり、書肆の考える『本朝水滸伝』の第一義的な読者と、「水滸伝」の名を作品に冠することとの間に乖離が生じていたことが、この改題本出版の背景として想定できよう。その他、改刻の様相や、綾足への評価などとも併せ、この改題本『芳野物語』の成立背景を考察し、「本朝水滸伝』の受容を考えてゆく。題号に「水滸伝」を冠し、馬琴の批評以来、翻案ものとしての歴史的な意義が評価されている作品であるが、一方では、和学との関わりから、物語書としての受容も並び行われていた。その二つの評価の変遷及び関係について、私見を述べたい。
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よく知られた「猿蟹合戦」の話には、異伝というべき話型がある。それは、猿が青柿を蟹に投げつけ殺めたので、蟹の遺子「蟹太郎」が日本一の黍団子を作り、栗・蜂(あるいは鋏)・牛糞・臼などに与えて仲間とし、猿が島へ乗り込んで猿を退治するというもので、黍団子の要素を除けば、ほぼ「猿蟹合戦」の話といってもよいし、「桃太郎」話が混入しただけのようにも見える。この異伝の話は、「猿が島敵討」の題が付せられることが多く、上方・西国方面で流布していた話らしい。
「猿蟹合戦」は既に近世、赤本・黒木、黄表紙、読本、戯漢文、あるいは俳諧、狂歌などに取り込まれ、さらに馬琴、京伝、六々園春足らによる記録・考証もなされ、後期に至れば、浮世絵、おもちゃ絵、双六、子供絵本(小本)などにも描かれて広く流布した。こうした数多い「猿蟹合戦」を一つずつ見ていくと、幾つかの作品には、確かにこの「猿が島敵討」によったと思われるものがある。さらにその流布の状態からみれば、この「猿が島敵討」の方が通常の「猿蟹合戦」よりも古態を示しているのではないか、とも思われる。
本発表は、「栗」「黍団子」などをキーワードにして、江戸期における各種の「猿蟹」記事を検討し、「猿蟹合戦」の流布の様相とともに、「猿が島敵討」という異伝の存在、広まり、さらには「猿蟹合戦」話との融合などといった問題について報告したい。
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広瀬淡窓が青年期、南宋の陸游の詩風に強く影響を受けたことは、淡窓の『懐旧楼筆記』巻十に書き記され、古川哲史氏らも指摘するところであったが(『広瀬淡窓』思文閣、一九七二年)、淡窓が陸詩のいかなる特徴を摂取して自己の詩風を築き上げたかということの具体的分析はこれまで殆どなされてこなかった。
そこで今回、淡窓の個々の作品について改めて陸游の影響を検証したところ、淡窓が語彙・詩句レベルでの受容に留まらず、陸詩に特徴的な主題を詠じながらも陸詩にはない独自性を打ち出そうと試みていたこと、当時の巷間での陸詩受容が主としてその田園詩に偏るのに対して、淡窓は陸游の悲憤慷慨調や憂国の詩にも倣い、自らの歴史や現実認識を詩の表現に凝縮する方法を体得していたこと、さらに陸詩に特徴的な、詩句中に自らの中国古典詩歌に関する知見を示す「論詩詩」にも積極的に学び、その上で陸游とも異なる独自の詩論を打ち出していたことを明らかにするに至った。今回の発表では、このうち特に「論詩詩」に焦点を当て、そこから後の『淡窓詩話』に結実する淡窓詩論の源流に陸游の存在が少なからず関わっていたことを指摘する。また、これら淡窓の「論詩詩」に見える詩学認識は、漢詩文のみならず『徒然草』のような和文学の鑑賞態度とも結びついていたこと、経書・史書・子書のほか、漢詩文の講義をも重視する咸宜園の教育方針と連関していたことにも触れたいと考えている。
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菅茶山の別集『黄葉夕陽村舎詩 後編』(文政六年刊)が誰によって校訂されたのかはこれまで明らかにされてこなかった。広島県立歴史博物館蔵『黄葉夕陽村舎詩草稿 後編』には北条霞亭、頼山陽、武元北林、頼春水の書き入れが備わるが、板本につけば、霞亭だけが草稿に見える他の三者の書き入れを踏まえた評語をなしていることがわかる。また霞亭が当時廉塾都講として神辺に居仕していたことを考えると、板本後編の校訂者を霞亭とすることができよう。その上で本発表では霞亭の編纂態度がいかなるものであったかを考察する。
板本に施された茶山詩に対する評語は、それが北条霞亭によるものならは北、頼山陽ならば頼、武元北林ならは武と、姓の一文字を摘んでこれを四角で囲むという形式が取られているが、頼春水に限っては「春水曰…」というように別様のスタイルとなっている。これは他の三者が漢文で評言を叙したのと違って、春水のそれが往々にして漢字片仮名交じりであったためであろう。すなわち草稿において和文であった春水の鼇頭評が上梓の際に霞亭によって漢文に翻訳されたことになるのである。
更には、草稿につけば霞亭が春水の評言に対していささか操作を加えていたことも確認される。その中にはある作品に対する評語を別の作品の評語に挿げ替えたものまである。本発表では春水の書き入れの特徴を瞥見しつつ、霞亭がこうした編纂態度を取った意味を探る。
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『澹如詩稿』(刊本、六巻四冊、万廷元年〈一八六〇〉序)は江戸の商賈菊池教中(号・澹如。文政十一年〜文久二年〈一八二八〜一八六二〉)が弘化から安政年間にかけて作成した約三百首の詩を収録した詩集である。教中は江戸で呉服・金融業などを営んだ宇都宮出身の富商大橋淡雅の長男で、文人として聞こえた淡雅の影響のもと自らも文事に傾倒したが、椿椿山ら三十八名の画家による多色刷の挿絵や、佐藤一斎はじめ名士の名に彩られた序跋や評語など、本書は淡雅から継承した文雅の世界の豊かな人脈と経済力を想像させる。
しかし、その華やかさの中にあって目立ちはしないが、本書に世情不安などを詠んだ憂国の詩が時折登場することは見逃せない。実は収録詩の創作時期にあたる二十代半ばから三十代にかけての教中は、江戸店を維持しつつも宇都宮を根拠として新田開発を行い、同地で地主経営を展開するという経営戦略の大転換を図っている。その背景には、義兄にして勤王家の儒者大橋訥庵の攘夷思想に感化された結果の対外的な危機意識があったと言われるが、その上で本書を検討すると、その田園詩風の作風は郊外で自ら聞墾作業を指揮する教中の実生活と重なり合い、さらに本書を取り巻く人士達も教中の新田開発の支援者としての側面を持っていることがわかる。本発表では『澹如詩稿』を通して同時期の教中の経世意識の高まりが憂国の詩へと結実していく様子を明らかにしていきたい。
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安永十年春二月の年記を有する双幅の「武陵桃源図」(個人蔵)に関しては、芳賀徹(「蕪村詩画における桃源郷」『与謝蕪村の小さな世界』一九八八)や、河野元昭(『与謝蕪村―翔けめぐる創意』「武陵桃源図」解説 二〇〇八)が、右幅は桃源郷の入り口で住人に行く手を阻まれる漁師を、左幅は桃源郷の住人に追い返される漁師を描くと解する。 今回、報告者は、両幅に題された袁中郎の詩と蕪村の絵画との関連に言及し、袁詩の背景になったと考えられる詩文や、蕪村のほかの作品と対比することで、両氏とは別の視点から本図を読み解く。
すなわち、右幅は桃と仙人が漁師を出迎える構図。左幅は桃と松、さらに漁師を見送る陶淵明が描かれたとの見解を示す。桃源の美しい自然を歌いあげ、読者を仙と人とが共存する理想郷へといざなってくれる袁詩の魅力を活かすべく、蕪村は画をものした。右幅に白髪の黄道具(中本大「桃源郷の『黄道具』―本邦における画題受容の一側面―」(『語文』八十・八十一輯 二〇〇四・二)、腰に瓠をぶら下げた桃源郷の住人、裸足の漁師を描く。左幅には鬚を蓄えた桃源郷の住人、若返った漁師、胸をはだけた陶淵明、童僕二人を描く。本図には人と仙とのたまさかの出会いと別れが、両幅に亘って効果的に表現されていると推定する。
絵画と詩とをみごとに調和させ、桃源受容の軌跡に新境地を開いた、蕪村というすぐれた才能を総合的に評価したい。
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『句兄弟』(元禄七年序、上中下三冊)上巻で編者其角が考案した「句兄弟」の方法は極めて画期的な着想であった。句兄弟とは、和歌(本歌取り・贈答)、漢詩(和韻・点化句法)の方法を俳諧に応用し、古今諸家の句を兄、その兄に唱和し、発想を転じて新たな趣意を詠じた句を弟として番えるものである。この唱和の方法は俳壇に反響を呼び、そして其角系俳人に大きな影響を与えた。
江戸座における句兄弟を史的に概観すると、時に複雑化しつつも、連綿と継承される。例えば、貞佐は句兄弟の続編「梨園』(享保二十年刊)でその方法を顕彰し、貞佐門の平砂は『俳諧而形集』(明和九年刊)で和韻や贈答を駆使し諸俳人と活発に唱和する。平砂校閲の『歴翁二十四歌仙』(安永六年序)は、歴翁(角館城代佐竹義邦)が其角・貞佐の衣鉢を継ぎ句兄弟を試みた作品である。さらに、歴翁の師事した素外は、句兄弟に触発され『俳諧類句弁』(天明元年刊)を著すといった展開をみせる。
一方、蕪村が句兄弟の方法を取り入れていたこともよく知られる(藤田真一「蕪村反転の法―または句兄弟について―」『連歌俳諧研究』六三)。本発表では、上方の動向に目配りしつつ、句兄弟が其角以後も江戸座俳人に継承され、基角堂永機ら明治期旧派にまで及ぶ都会派俳諧の基幹となる方法であったことを明らかにし、加えて、そうした江戸座の方法が、パトロンである大名文化圏にも浸透、定着していたことを指摘する。
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寛政期以降、記載文芸としての噺本が少しずつ衰退し、焼き直しや剽窃が専らとなっていた中、「咄の会」にも噺家の部類にも属さず、独自の個人笑話集を執筆し続けた人物がいた。上毛の文人「瓢亭百成」(本姓村氏。名は定重。後に山中領黒沢家の養子となり覚大夫と名乗る。別称村瓢子・瓢百成・浅笆庵百成)である。江戸詰の対馬藩主でありながら、多病を理由に致仕すると上毛山中領の名主となった百成は、寛政〜文化・文政期にかけて本業の傍ら、十数鍾もの噺本をはじめ、滑稽本、狂歌、俳諧と様々な文芸においてその才を発揮していく。
百成については、郷土史の観点から、本多夏彦氏が小伝をまとめられており、文芸の観点からは、宮尾しげを氏、武藤禎夫氏らが作品の翻刻、紹介をなされているものの、この二点を結んでの彼の文事を概括した研究は、ほとんど進んでいないといってよい。
今回、『山中領黒沢家文書』(高崎市立図書館蔵)の再検討により上毛の地に赴いた後も百成と江戸の村家との関係は断絶しておらず、むしろ緊密に往来していた事が確認できた。
本発表では、こうした史料を踏まえ、百成の著作における表記および言辞の検討を行い、馬琴をはじめ浅草庵市人、五梅菴畔李といった人々へと連環してゆく文化的ネットワークとその諸相について明らかにする。
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『三綱行実図』は孝子・忠臣・烈女の所謂「三綱」の模範となる人物の「行実」について、「図」を配して説明した実践事例集である。朝鮮で刊行された『三綱行実図』は日本に伝わり、寛永七年に訓点と返り点がついた和刻本が、寛文年間には浅井了意による和訳本が刊行された。
和訳本『三綱行実図』の底本について、『三綱行実図』(『仮名草子集成』第32巻)の解説には、「了意の拠った原本は、朝鮮刊本か和刻本かという点では、まだ不明である」としている。しかし、今回、了意の訳文と朝鮮刊本及び和刻本を比較検討したところ、和刻本の訓点と返り点に多くの間違いが発見されたが、了意の訳文は和刻本の間違いを気付かないまま忠実に踏襲したためであることが判明した。送り仮名や振り仮名の用法から見ても、了意が和訳の際手元に置いて利用したのが朝鮮刊本ではなく、和刻本であることは確実であると思われる。
また、了意が利用した和刻本の底本について、中村幸彦氏は「朝鮮説話集と仮名草子―『三綱行実図』を主に―」(『中村幸彦著述集』第五巻)において、「この和刻の底本が、どの種のものかまだ不明なのは残念である」としている。これについて、志部昭平氏は『諺解三綱行実図研究』(汲古書院、一九九〇)で、和刻本が底本としたのは宣祖改訳本系統であると指摘している。今回、宣祖改訳本系統のうち、文禄・慶長の役以前に刊行された4種類11冊を調べたところ、和刻本は、京都府立総合資料館所蔵本と同じ系統のものを底本としたことが分かった。
その他、了意が目指した孝子・忠臣・烈女観とはいかなるものであったかについても発表する予定である。
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村田嘉言は歌人村田春門の長男である。弟の春野もまた国学や和歌を善くし、嘉言も生玉に塾を開き、当時の大阪和学の名門と言ってもよい。また、嘉言には国学者や歌人以外に、絵師、狂歌仙、読本作家、漢学者、雑学著述家の顔と、そして少しの医学の素養がある。就中、上田秋成の『癇癖談』の挿絵を描いたことで有名である。
その嘉言が読本にも筆を執ったことを横山邦治氏が指摘された(岩波書店、新日本古典文学大系八十巻)。すなわち『鳥辺山調綫』(文政八年)作者の鶴鳴堂主人は村田嘉言のことであり、「絵本三山草紙』(文政七年刊)に続いてこの『鳥辺山調綫』を著したのであった。その後、服部仁氏によって『絵本三山草紙』の初版が報告された(「絵本『三山草紙』について」平成十八年五月『上方文藝研究』第三号)。
この二作品はともに一楊斎正信という絵師が挿絵を担当している。この正信については不詳であり、他には金太楼主人(伊藤蘭州)作F復讐棗物語』(文政十年)、上方洒落本『北川蜆殻』(文政九年)にも挿絵を描いているが、嘉言との関係も分からない。
一方では一楊斎嘉言という両者を一つにしたような大阪の絵師がいる(『嘉永新鐫 増補書翰大成』(西川龍章堂、天保二年刊))。
本発表では、このことに、嘉言の姓の一つが「一柳」であること、『北川蜆穀』の署名が「嘉陽」であること、野々口隆正作「兼好法師伝記考証』の挿絵に「村田嘉昇」という署名があることなどをつきあわせて、嘉言と正信についての同人の可能性について発表したいと思う。
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三浦浄心の『慶長見聞集』(以下に《慶長》)と林羅山の『童観抄』(以下に《童》)との間に典拠関係を認めうる表現が存在し、その数は三十箇所に及ぶ。見聞録と故事要言集というミスマッチゆえに、検討の対象からはずれて今日に至ったもののようである。
ここからいくつかの問題が始まる。まず第一は両者の影響関係。《慶長》は巻末を「于時慶長拾九寅のとし季冬後の五日記之畢」と結び、《童》は刊年末詳ながら成立は寛永二年(鈴木健一氏『林羅山年譜稿』)。しかしながら大学頭林羅山が漢籍に関わりある知見を《慶長》ごとき胡散くさい書物に求めるはずがない。影響関係は《慶長》⇒《童》ではなく、《童》⇒《慶長》であろう。そうすると《慶長》の成立年時が寛永期までずれ込む、これが問題の第二。
さらに《童》以外にも先行文献の摂取利用が想定できるのではないか、これが第三。その結果として『和漢合運』『藻塩草』『庭訓往来抄』『連集良材』利用の実体を報告できるのであるが、これは仮名章子が好んで利用した典拠の書目と共通する。またこれらはほんの一端に過ぎず、利用は広く同時代のホットな新刊書に及ぶものであろう。そんな所から派生する諸問題にも言及してみたい。