文化文政期に刊行された合巻の摺付表紙には、本文中に描かれない七代目市川団十郎(以下、団十郎)の似顔が描かれることがある。これは合巻の中で、団十郎が江戸役者を代表する立場に置かれていることを示していると考え、合巻と団十郎の関係を検討した。
団十郎の地位を、役者評判記の役者目録の位付で確認すると、文化八年(一八一一)正月には立役之部の六枚目、文化九年正月には立役之部の一枚目に置かれ、初座頭を勤めた後、文化十一年正月には、五代目松本幸四郎、初代尾上松緑の大立者を脇に従え、惣巻頭の中央に置かれた。また、紋番付の位置も、文化七年度には市村座の六枚目、文化八・九年度には市村座の四枚目、文化十年度には森田座の三枚目となり、文化十年十一月市村座に、団十郎は二十三歳でいよいよ座頭となった。
合巻において、団十郎の似顔の役割が形成されていく過程を探るために、文化十年十一月に初座頭を勤める前、文化十年に刊行された合巻五十九種を調査した。その中で団十郎の似顔が確認できるのは三十三種であった。団十郎の似顔が使用された合巻のなかから、振鷺亭作『やまみづ天狗 大山』をケーススタディとして選び、合巻の表紙・口絵・本文の挿絵に描かれた団十郎の似顔と合巻の物語・趣向との関係について報告をしたい。
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『絵本三国志』(都賀大陸作・桂宗信画、天明八年〈一七八八〉刊)は中国の歴史小説『三国志演義』を要約した絵本読本である。挿絵の総数が一四九図にものぼり、その視覚効果を通して『三国志演義』の世界を表現しようとした意志が明確に読み取れる。
本作の挿絵と『三国志演義』刊本「遺香堂本」との影響関係は上田望氏によって指摘(『金沢大学中国語学中国文学教室紀要』第九輯、二〇〇六年三月)されているが、発表者がさらに諸刊本と照合して調査を進めた結果、『絵本三国志』が五種の『三国志演義』刊本を参照し応用させた様相が浮かび上がってきた。その五種とは、「遺香堂本」「宝翰楼本」「周曰校本」「李卓吾本」「英雄譜本」といわれる唐本の系統である。
本発表では、「遺香堂本」に焦点を絞ってその摂取様相を分析したい。『三国志演義』諸本では合戦場面が多く描かれているが、「遺香堂本」は繊細な女性描写を特徴とし、戦争以外の要素も表現しようとする。一方、『絵本三国志』は「遺香堂本」のこの特色を模倣した上で、他刊本からも戦場を思わせる風景を数多借用している。すなわち『絵本三国志』は諸本から特色を摂取することによって、それぞれ類型表現を繰り返す『三国志演義』諸本に対し、多様な合戦場面を創出している。
全体的な画風を裏づける試みとして、『絵本三国志』がいかに挿絵を取捨選択し、描き変えることによって独自の作品として成り立ったかを考察したい。
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大坂の陣以前の幸村はさほど知られていなかった。天正十年と慶長五年、二度の上田合戦を記した『上田軍記』の幸村(信繁)は殆ど目立たない。武辺咄も後藤基次より遥かに少ない。傭兵隊長であった幸村は、夏の陣での華々しい討死によって一躍その名を天下に轟かせたのである。『難波戦記』は徳川贔屓の作であるが、ここで幸村は東軍と善戦した大坂方一の武将として描かれ、軍師の力量も備えていたと評された。『難波戦記』自体非常に流布した書物であるが、神田白竜子『浪速軍記全解』他の多くの末書も生み出された。それら末書は共通して大坂贔屓の姿勢を鮮明にしており、その中で幸村の行動は誰よりも詳しく語られる。家康狙撃・伏兵・影武者等等。
後続の『厭蝕太平楽記』は末書の逸話の多くを吸収する。幸村は大坂城中の総軍師となり、後藤基次以下の「四天王」を手足のように使いこなして東軍を悩ませる。講談『難波戦記』の種本となった娯楽作品であるが、『通俗三国志』を使っている。夏の陣「平野の大焼討」と赤壁の戦いから華容道のくだりなどは見やすい例だろう。さらに増補作(『厭蝕太平楽記』の四倍弱)『本朝盛衰記』では、幸村は己の命を司る将星を祈?で覆い隠して死んだと思わせ、家康を平野におびき寄せる。五丈原からの創作で、幸村は孔明以上の大軍師となりおおせているが、この神通力は最早人間離れしている。読者に納得させる実録としては、行き過ぎと称するべきである。
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『英草紙』第三編「豊原兼秋音を聴きて国の盛衰を知る話」に登場する兼秋の知音横尾時陰は、自身を「姓は横尾名は時陰、親なるものは其のむかし大和介といって、代々天王寺に住みて、八幡太郎殿より琵琶の伝を授かりし家にて、時陰は家の通り名なり」と紹介している。従来、この人物に関しては「太平逸民の意を含めて創作したもの」(石破洋「都賀庭鐘の翻案態度─『英草紙』第三篇における琴を中心に─」『東方学』55号 昭和53年1月)などとされてきたが、「横尾」という姓は架空のものではなく『楽家録』「管絃系図」などに多好方の弟子として載るものを利用したと考えられる。また、「八幡太郎殿より琵琶の伝を授かりし家」ということに関しても、古典全集頭注は「義家の弟新羅三郎義光が笙の名手であったのに対して仮構したか」とするが、『青栗随筆』(国会図書館蔵)に記載されていることが確認でき、これも庭鐘の創作と考えるべきではなさそうである。
これらの諸点を手がかりにしながら、この作品における音楽関係の記述を再点検し、我が国における琴・琵琶の歴史を語ることが、単なる考証の羅列ではなく、作品のテーマと通底していることを明らかにしていきたいと思う。
なお、本発表は、木越秀子の調査をベースに、二人で議論しつつまとめたものであることを明記しておく。
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紀海音の浄瑠璃作品の特徴、傾向、史的意義を考えるためには、個々の作品の上演年時を確定することは重要不可欠な基礎的研究である。黒木勘蔵氏「紀海音研究」や祐田善雄氏「紀海音の著作年代考証とその作品傾向」以降も、いくつかの作品について上演年時が検討、確定されたが、それでもいまだ解決されていない課題も多い。
海音の作品の一つ『愛護若塒箱』の上演年代については、現在、豊竹若太夫正本の存在は確認されていないが、かつて黒木氏や祐田氏がその存在を指摘されているので、若太夫が上野少掾を受領した正徳五年秋以前の上演と考えられている。しかし、黒木氏が日本名著全集『浄瑠璃名作集 上』や昭和版帝国文庫『紀海音並木宗輔浄瑠璃集』に翻刻された『愛護若塒箱』の底本は、奥書が欠けた正本と推測され、若太夫正本を底本に使用されなかったこと、さらには若太夫正本の存在にも疑問が持たれる。
本発表では、正徳五年から享保三年にかけて行われた日吉大社の修復、大坂荻野八重桐座で正徳五年秋上演された「初冠愛子の若」切狂言「松風」との関係などから、『愛護若塒箱』若太夫正本存在の可能性を考察したい。
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古浄瑠璃太夫・宇治加賀掾による最初の浄瑠璃芸論『竹子集』(延宝六年刊)序文は、近世期に広く流布した『八帖花伝書』を規範として成立したものと考えられてきた。竹本義太夫が「今又申沙汰せんは花伝書の抜書。われこそ伝授事しりたりがほ成もむつかし。」(〔貞享四年義太夫段物集〕序文)と記したのも、『竹子集』序文の『八帖花伝書』援用に対する批判と捉えられ、新進気鋭の義太夫と、謡曲に傾倒し保守的であった加賀掾との対比を示す事例として、度々引用されている。
今回は通説に対し、『竹子集』序文と『塵芥抄』系謡伝書、とりわけその解説書である、進藤流脇方・進藤以三著『筆の次』(寛永十九年成立・筆写本)との直接的な関係について報告したい。『塵芥抄』系謡伝書と『竹子集』序文を対照してみると、従来その拠り所とされていた『八帖花伝書』より、確かな類似性が認められる。中でも『筆の次』の進藤以三による補筆部分とは、高い確率で本文の一致がみられ、宇治加賀掾の『竹子集』序文は、『筆の次』の強い影響下に執筆されていることが明らかになった。
本発表では、『竹子集』序文と『筆の次』の本文を比較検討し、加賀掾が『塵芥抄』系謡伝書をどのように自身の芸論へ採り入れたかを考察する。さらに他の浄瑠璃芸論への影響、加賀掾の進藤流との交流など、今後の研究で課題とすべき点についても述べたい。
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白話小説『水滸伝』の作者については、従来さまざまな説が提起され、今日では特定の個人による創作とは見なさない傾向にある。この問題に関して、曲亭馬琴は天保十年二月執筆の『南総里見八犬伝』簡端或説贅弁の中で、「水滸百二十回は、羅貫中が一筆なるに疑ひなし」と断じている。文政末年には、ひとたび複数作者説に傾斜した馬琴であったが、いわゆる「水滸三等観」の獲得や、『三遂平妖伝』の披閲等を通して、「羅貫中単独執筆説」に対する確信を得たのである。
拙稿「『水滸伝』の諸本と馬琴」(『復興する八犬伝』所収)で考察を加えたように、馬琴がその生涯に披見した『水滸伝』の板本は十点に満たず、諸本に関する見識も、文化初年以降さして進展することがなかった。それにも関わらず、馬琴が天保年間に至って、羅貫中を『水滸伝』作者として激賞した背景には、金聖歎への強烈な対抗意識が存したものと考えられる。
本発表では、『水滸伝』作者に関する馬琴の言説を整理し、彼の羅貫中に対する絶賛が、天保期に入ってにわかに表われたものであることを確認する。その上で、羅貫中を「今古独歩の作者」とする馬琴の認識が、彼の作品の中にいかなる影響を及ぼしているかについて、考察を行なう。『八犬伝』の対管領戦は、筋立ての多くを『水滸伝』や『三国演義』に依存しているが、自作の結末部分に、羅貫中の両巨編を摂取した馬琴の意図について、改めて検討を加えてみたい。
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信多純一氏は『馬琴の大夢 里見八犬伝の世界』(二○○四年)において、文渓堂丁子屋平兵衛が、天保七年頃から大坂より買い戻した『八犬伝』の板木を用いて『八犬伝』の後印本を発行し、天保八年頃からは、「天保十一年なら馬琴失明の期になるが、この時点ではまだ彼の目も何とか見える段階で、幾つかの改変(薄墨図の改変や加板―服部注)を馬琴自身行っていることになる。造本の全てに目を通す馬琴の許しなしに、そうした改変を本屋側が行うことは絶対にないとさえ言える馬琴の『八犬伝』刊行に対する入れ込みようは周知の事である。」としておられる。そして朝倉留美子氏も同様の主張(「『南総里見八犬伝』諸本考 前・後編」『読本研究』第六輯下套・第七輯下套〈一九九二年九月・一九九三年九月〉)をしておられる。
しかし、この後印本の改変に馬琴の指示があったとする認識が誤りであることを、『八犬伝』第四輯巻之一・九ウ〜十オの初印本と後印本の挿絵(芳流閣の場面)を比較検討することによって、論証してみる。そして、『八犬伝』の本文からしてあり得ない改変、つまり薄墨図の加板を企図したのは、丁子屋平兵衛、ないしはその周辺の人物であり、その背景には歌舞伎として上演された「八犬伝」が影響していたのではないか、ということについて考察してみる。
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『徒然草』は近世になって本格的に流布し、近世の文学思潮に甚大な影響を与えた。その際に重要な役割を果たしたのが、大儒林羅山によって著された浩瀚な注釈書『野槌』である。『野槌』には初刻本(伝本稀れ)と再刻本(流布本)の存在が知られているが、初刻本に改訂を加えた一部改刻本については、未だ詳細な紹介や検討がなされていない。本発表では、まず以上三種の諸版に、内閣文庫および神宮文庫蔵の重要な異同をもつ写本を加え、それぞれの差異と関連とを明らかにし、『野槌』がいかに編纂され、成長していったのか、その過程について考証を加える。
『野槌』が世に及ぼした影響は大きく、まず『徒然草』テキストにおいては、伝中和門院筆写本や、明暦四年版本(仮名草子の作もある漢学者辻原元甫が跋文を記す)に『野槌』の本文が採用されている。もとより、後続の『徒然草』注釈書には決定的な影響を与え、その際に、『野槌』の簡約版ともいうべき『鉄槌』諸版も多く利用された。また、『野槌』は『徒然草』注釈書という枠を超え、さまざまな知識を集めた一種の類書として、後続作品に影響を及ぼしている。たとえば出雲の地誌『懐橘談』や『東海道名所記』に見られるように、『野槌』の記述は初期歌舞伎の芸態描写にしばしば引用される。これらさまざまな局面における『野槌』の影響について、その版種の別を踏まえて考察したい。
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江戸時代中期、琉球から薩摩藩を経て幕府にもたらされた『六諭衍義』は、将軍徳川吉宗の目にとまった。そして、庶民教化に役立てるべく、室鳩巣に和解を、荻生徂徠に訓点を施すよう命が下る。その後、訓点本『六諭衍義』は享保六年(一七二一)に、和解本『六諭衍義大意』はその翌年に刊行されるが、特に後者は、長期間にわたって、何度も摺られ、形を変えながら、全国に広がっていく。
『六諭衍義』については、すでにすぐれた研究がいくつか残っており、中でも、東恩納寛惇氏の『庶民教育としての六諭衍義』(昭和七年刊)をはじめとする一連の研究は極めて重要といえる(『東恩納寛惇全集』8〈昭和五十五年刊〉所収)。同氏によれば、氏の蒐集した諸本は、八十六種・百二十一冊に及ぶが、それでもまだ欠けているものがあるという。また、各種の諸本について『日本教科書大系・往来篇』は、三類に分類しており、@鳩巣の和解をそのまま踏襲したもの、A和解を継承しつつ注釈や絵などを加えたもの、B民間の有識者が和解を試みたものとしている。このような多くの諸本のためか、その後の研究は、一点ごとの紹介などが中心となってきている。
本発表では、これらの先行研究を踏まえながら、諸本の多くが施本であることに注目して、庶民教化と『六諭衍義大意』について考察を加えてみたい。
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真淵の『源氏物語新釈』(以下、『新釈』)に対する評価は必ずしも高くはない。それは、真淵自身が源氏物語についてやや否定的な見解を述べていることに加え、『新釈』が『湖月抄』の注を削除・増補して成立したものであり旧注を踏襲したに過ぎないという、消極的な評価が先行してきたことによる。また、『新釈』の総論にあたる『源氏物語新釈惣考』には、為章や春満の説に基づいて源氏物語を理解したという真淵の論が明確かつ端的に示されており、そのためか真淵の注釈内容じたいには十分な検討が加えられてこなかった。
『新釈』は『湖月抄』に対する二度の書入れを基礎としており、第一次本と第二次本が存する。本発表では、第一次本から第二次本への変更点を確認し、さらに『新釈』に利用された旧注を分析することで、真淵の注釈の成立過程を明らかにする。『新釈』の内容については、原雅子氏らによって、人物の心情に踏み込んだ真淵の解釈例が取りあげられてきたが、先述の作業を通して、真淵独自の説の内容を検討することにより、登場人物の心情解釈が『新釈』の基軸となっていることを指摘する。真淵は、源氏物語が人情をよく描いているとする先行注釈・評論の主張を重視したうえで、それを発展的に継承し、注釈方法に反映した。こうした真淵の注釈方法は、「理」を排除し「わりなき」思いをそのまま詠み出すべきであるとして心情を重視する、真淵の歌学の特徴と共通するものである。
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万治二年刊の仮名草子『百物語』は、上下二巻二冊。上巻、五十話。下巻、五十話の計百話からなる。その中には笑話もあれば、歌人や詩人の逸事奇聞も多くある。
この度の発表では、引用される和歌・句の二三について出処を中心に報告することとしたい。
一例を挙げれば、本書序文に引用の「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼のすみかなるらん」の和歌は、『太平記』巻十六・「日本朝敵ノ事」の条に、紀朝雄の詠歌として、
「草も木もわが大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき」
と記す。
また、謡曲『現在千方』に、
「土も木も我が大君の国なれば何処か鬼の住処なるらん」
とあり、
さらに、『大江山』に、
「土も木も我が大君の国なれば何処か鬼の宿りなるらむ」
と見え、
さらにさらに、『御裳濯』に、
「草も木も我が大君の国なれば国なれば処も同じ神と君」
とも記す。
なお、『私可多咄』(寛文十一年刊)巻一にも、この和歌をもじった狂歌、
「土も木もわか大君の国なれはいつくか王仁の宿とさだめん」などがある。この和歌と紀朝雄は、この時代にあって、どのような属性を与えられたものなのか。隠喩としてのそれは何かを合わせ問うてみたい。
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『奥の細道』末の松山の条は、天理本・西村本ともに、
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。末の松山は寺を造りて末―松―山と云。
と書き出されているが、ここでの「末の松山は」の切り出し方はいかにも唐突である。一方、新出中尾本ではそこが「……を尋て末の松山は……」(「て」見せ消ち)とあったのだが、この原文の方は、「尋て」の後に〔末の松山ニ行ク。〕とあるのでもなければ、意が通じにくい。とすればつまり、もとの「尋て」にしても、改案の「尋ぬ」にしても、万全の本文ではないのである。なお、前者の通行本文については別に、曾良『旅日記』からここの成立ちを考える立場もあるが、かりにそれによるにしても、もう一つの「末の松山」の欠落ということは動かないであろう。
この条にはまた、「其夜目盲法師の」で始まる一節に、これは従前から問題にされてきた「ものから」が含まれている。
さすがに辺国の遺風わすれざるものから殊勝に覚らる。
『奥の細道』の「ものから」二例は、逆接か順接かの議論がいまも絶えないが(『解釈事典』平成十五年)、すくなくともこの用例に関しては、順接でも逆接でも、あるいはそれで落ち着かないので、強いて「いずれでもない軽い中止法」と見ても、要するにそれが「因果関係」の範疇を出ないかぎり、「殊勝に覚えらる」の〈覚ゆ〉の対象とすると、解釈に問題が生ずるであろう。ここは、中尾本貼紙下の「もの也と」がその前後を含め、本来のあり方であったと思う。