長谷川強氏『浮世草子考証年表』(青裳堂書店)には、改題・改竄本を除くと四百十作の浮世草子が登載されている。そのうち広義の八文字屋本は百五十七作で、浮世草子史に占める位置の大きさは明らかであるが、各書肆の出版状況を年度ごとに見ていくと八文字屋以外の書肆から板行された浮世草子が目立つ時期がある。其磧が没した直後の元文期もその一例であるが、本発表では元文二年に上梓された『怪談御伽桜』と『渡世伝授車』を材料に、八文字屋本とは異質の浮世草子が生れた背景について述べる。
両書ともに著者は雑俳点者の雲峰(彼の師の雲鼓と浮世草子との関わりについては倉員正江氏の先考がある)。軽妙なオチを持つ奇談集の前者(朴蓮叔氏に翻刻紹介がある)については、近藤瑞木氏が末期八文字屋本『当世行次第』(明和四年刊)への影響を指摘しているが、異界の扱い方や和漢の古典の引用の仕方などに違いも見られる。また、古代神話から『日本永代蔵』まで古今の書物を幅広く引用し、さながら気質物のごとく、普請方、米商人、道具目利など十二の職種にまつわる教訓的笑話を並べ、最終巻に「福貴になりやうの伝授」など六つの「極秘伝」を談義口調で軽妙に述べる後者は、極めて教養主義的であり、八文字屋本にはない実用性と説得力をも有している。これほどの筆力を有する雲峰が、なぜ二作で終わってしまったのか。その理由を、浮世草子と雑俳の近さなどについても併せて報告する。
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従来、「山手馬鹿人」の号は四方赤良、すなわち大田南畝の別号と考えられてきた。しかし、その一方で、同一人説を疑問とする見解も少なからず存在している。この別人説における馬鹿人の候補としては、これまで朱楽菅江(玉林晴朗氏)、山手白人(浜田義一郎氏)などが挙げられてきたが、いずれも決定的な証拠に乏しく、別人であるか同一人物であるかも判然としていないというのが実状である。
本発表では、『近世物之本江戸作者部類』において、馬琴が「何人なるをしらず」と記しているように、安永期、突如として現れ、数作にその名を留め多くの謎を残したまま、瞬く間に姿を消した「山手馬鹿人」の号が、南畝の別号ではないことを証明する。
現在、馬鹿人の名をその序に確認することのできる唯一の噺本である『蝶夫婦』(安永六年)を、書誌、表記の観点から検討すると、実際には本書が「山手馬鹿人」の単独作ではなく、異なる人物が携わった二編から成る作品であることが確認できる。ここで明らかとなった特徴を基に、その嗣足改題本である『話句翁』(天明三年)および南畝が手がけたとされる他の噺本との比較検討を行うと、表記、特に庵点の用法において両者に明らかな相違が見て取れた。これらの結果を踏まえ、これまで南畝作と認識されてきた『甲駅新話』(安永四年)をはじめとする洒落本を、序跋、筆跡の面に注目してあらためて検証を行い、「山手馬鹿人」の号が大田南畝とは別人物を示すことを指摘する。
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山東京山作・三代歌川豊国画の疱瘡絵本『桃太郎金太郎雛鶴笹湯寿』(嘉永三年序、山田屋庄兵衛板)について考察する。先行研究において紅摺疱瘡絵本の最後に位置するという指摘はあったが、未報告の一書である。
物語は桃太郎の誕生と鬼が島行きを軸に、はちかづき姫との結婚、愛息金太郎の誕生と出世が追加されている。こうした赤本の代表的な昔話や嫁入り話で組み立てた子供のための祝儀的内容、護符としての呪的要素と、本作は疱瘡絵本に求められるものを網羅しているが、一九作や春水作に見られる、呪的な意味をこめて様々に「軽さ」を演出した黄表紙めいた戯作的作風とは一線を画す。
序文によれば、板元の狙いは八十歳を超えても元気に活躍している京山の長寿にあやかることにあった。故に本作は全編富貴な雰囲気に満ち、爺も婆も若々しく描かれ、当の子供より親以上の世代に聞かせる教訓的言辞が盛られている。この点、子供の玩具としてのみならず、昔を懐かしむ大人のための趣味的な豪華本という要素を持っている。
高い年齢層に向けた教訓的態度、さらに草双紙や自身の歴史を振り返る態度を見せるのが老年期における京山の特徴だが、本作でもその傾向が見られる。加えて、刊行当時すでに種痘が普及し始め、もはや疱瘡絵・同絵本は旧来の役目を終えようとしていた。疱瘡絵本の掉尾を飾る懐古的な本作は、集大成の意味を持つのである。
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『南総里見八犬伝』において、犬江親兵衛は仁玉を持つ八犬士の一人である。作中で仁は里見家にとって重要な徳とされるが、最年少の少年犬士である親兵衛が仁玉を持つところに特異性が見られる。そしてその重要な徳を担う親兵衛の初陣「館山城合戦」については、これまであまり論じられていない。
本発表では、『八犬伝』における「館山城合戦」の親兵衛及び周囲の登場人物について、『三国志演義』「黄巾の乱」に加え、聖徳太子十歳時の伝承「暴夷退治」が利用されていることを指摘する。
具体的には、『三国志演義』「黄巾の乱」との関係において、@素藤が黄金水で村人を救うこと、A妙椿の妖術及びその妖術を破る手法、に注目する。さらに聖徳太子伝承「暴夷退治」との関係では、@親兵衛の敵役である素藤や妙椿に暴夷の様相が付されていること、A親兵衛が「白と青を雑えた毛色」の馬に乗り、戦いに赴いたこと、B「館山城合戦」の後、親兵衛が素藤を許して追放する旨を進言したこと、に注目する。
以上、親兵衛の初陣「館山城合戦」には、劉玄徳の初陣「黄巾の乱」と聖徳太子の初陣「暴夷合戦」が利用されていることを指摘し、親兵衛の初陣「館山城合戦」における親兵衛の言動を検証することにより、馬琴が親兵衛に対して仁性を付与するためにどのような趣向を施したのかを明らかにする。
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表記の問題に関しては、一応の素描が、『西鶴』(国語国文学研究史大成11)の研究史通観二「文化・文政期における西鶴の復活」3「馬琴と西鶴」において為されている。それに拠れば、馬琴は相当に西鶴を意識しており、『燕石雑志』五では、好色本を除く西鶴の代表作を七・八点挙げているほどである。だから、馬琴が自作に西鶴作品を取り込む事が十分にあり得るのだが、その具体的な指摘は、未だ現われていない。
私見に拠れば、馬琴による西鶴作品の取り込みは、幾つか指摘できるのであるが、その最大にして最重要なものは、西鶴の『好色五人女』巻四「恋草からげし八百屋物語」の八百屋お七の話を、「八犬伝』第二十五回浜路口説の話に取り入れ、馬琴流に再生させている事である。より具体的に言えば、八百屋お七が夜中に大胆にも小野川吉三郎の寝所に忍び行く、という話が、浜路が大胆にも犬塚信乃の寝所に忍び行く、という話に再生させられた、ということである。うら若き素人の処女が、事もあろうに自分から進んで若い男性の寝所に真夜中おとずれる、という設定は、近世に在っては、非常に型破りのものであったと言えようが、この型破りで大胆な設定を両者が共有している、という事自体が、馬琴の八百屋お七譚取り込みを証明している、と言いたい。馬琴が『近世説美少年録』において、『五人女』一の清十郎・お夏の名を陶瀬十郎・お夏と再生させている事も、その証明の補助となる。即ち、『八犬伝』の浜路は、『五人女』のお七なのだ。この事が坪内逍遙の『小説神髄』に如何ように投影したか、に就いても述べたい。
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真淵は、題詠が和歌の自由な発想を損ねているとして、従来のような題詠を止めるよう門人に促した。この主張は、題詠を当然としていた当時の近世和歌において、画期的なものであったといってよい。しかし、真淵は、題詠による歌会を止めることはなかった。本発表では、一見矛盾するこの真淵の姿勢について、真淵の歌論・門人宛の書簡および村田春海・橘千蔭らの言を通じ検討する。
真淵は、『龍のきみえ賀茂のまふち問ひ答へ』(宝暦十年成)等門人への指導において、絵の題や古今六帖題を勧めており、漢字のみで構成される題が一般的で、それをいかに詠み込むかが重視されていた状況のもと、真淵の指導の狙いは、題により歌意が固定されることを防ぎ、題から一定の距離を置いた詠歌を行うことにあったものと思われる。題による自由な想像を重視するこうした指導によって詠み出された門人の和歌には、結果として、たとえば詠者自身とは異なる性の立場での詠など、虚構の要素が多く見られるのである。
題の本意・本情を重視する中世以来の姿勢に対して、近世では、それらを尊重しつつも、実情・実景に基づく詠歌への志向が高まっており、真淵自身も実情・実景を重視していたが、虚構としての題を必ずしも嫌うのではなく、中世歌学に基づいて歌を詠むとき、和歌が題に縛られすぎる事態に陥ることを懸念していたのである。
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礪波今道の名は、『呵刈葭』上巻で上田秋成に「我社友」として言及され、また『石上稿』に加藤宇万伎の没後、借書返却のため松坂の本居宣長を訪れた人物として見えることが知られている。更に近年、釘貫亨氏により『呵刈葭』上巻の論争において、秋成が(誤解を孕みつつ)依拠した学説を成した人物だったことが指摘されている。とはいえ彼が果たして何者だったのかについては従来、全く明らかではない。
本発表では、明和八年刊『いはほぐさ』の著者礪波荒虫と今道が同一人物、すなわち秋成同様、建部綾足門から宇万伎門へ移行した人物であること、彼が越中高岡の漆芸家辻丹楓であったことなどの伝記的事項について、富田徳風『高岡湯話』、津島北渓『高岡詩話』、筏井家文書、現存の漆工作品など、郷里高岡に残る諸資料を中心にまず整理を試みる。その上で、宝暦から天明期に至る断続的な京都遊学の折々における彼の学芸上の交流が、橘経亮、川口好和、内池益謙等、蘆庵・蒿蹊周辺の人員と重なる事を指摘する。更に、本居大平(稲掛茂穂)の安永六年、天明元年の上洛の際における昵懇な交際について、大平が今道の所持する県門関係の書物を度々借覧・転写している事実と共に、この時期の京の和学者間での鈴門和学に対する関心の高まりを指摘する。
以上の指摘を通じ、従来秋成以外の動向が不鮮明であった上方県門の展開について、礪波今道という視座より再検討を試みたい。
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近松門左衛門の『国性爺合戦』における国性爺は、日本から中国に渡って明国を再興する英雄として描かれる。ところが、宝暦九年初演の歌舞伎『仮名草紙国性爺実録』の国性爺像は、異国から日本にやってきた謀反人という設定で、近松の国性爺像とは全く異なっている。この構想はどこからきたのだろうか。ここで、宝暦七年初演の歌舞伎『天竺徳兵衛聞書往来』という作品に注目する。『天竺徳兵衛聞書往来』と『仮名草紙国性爺実録』は、外題を一見しただけでは、それぞれ「国性爺もの」「天徳もの」という別々の系譜に連なる作品であり、接点はないように見える。だが、両作品の主人公は「実は七草四郎」という設定が同じで、異国からやって来て日本転覆を企むという点と、妖術の使い方が共通している。更に、両作品の作者である並木正三と竹田治蔵、また主演の中山新九郎と藤川平九郎が、それぞれ当時の上方で拮抗する実力の持ち主であった点も注目に値する。これらの要素を考え合わせると、『仮名草紙国性爺実録』は当時の観客にとって、「実は七草四郎」という設定を通して、二年前に大当たりをとった『天竺徳兵衛聞書往来』を彷彿とさせるような作りになっていたのではないかと考えられる。
本発表では、『天竺徳兵衛聞書往来』と『仮名草紙国性爺実録』の歌舞伎台帳を比較検討し、役者評判記もあわせて読んでいくことで、両作品の関連を読み解くことを目指す。
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近世前期江戸の歌舞伎と浄瑠璃の交流については、資料が限られる面もあって具体的に捉えることが難しい。本発表では上演記録なども視野に入れながら、その一端の解明を試みたい。
土佐少掾の『薄雪』は元禄十五年頃の初演と推測され、薄雪からの恋慕という男女の逆転に注目されてきた。今回、対馬藩邸での上演記録により、初演は元禄八年二月以前と推定される。元禄前半期の作として見直すと、男装しての忍びに改めて着目される。少人(若衆)への変装は、『好色五人女』(西鶴・貞享三年)や『智略かたきうち』(角太夫・延宝五年)、『寝物語』(加賀掾・貞享四年)など散見するが、歌舞伎には早く寛文十年に「にせ若衆」(『大和守日記』)があり、元禄期には若女方の芸の一つになっていた。
元禄四年に袖岡政之助が江戸へ下り、中村七三郎との濡れが好評を得た。特に薄雪が評判を呼び、「かほ見せのうすゆき…古今の見物」(『古今四場居色競百人一首』元禄六年)のように、繰り返し言及される。政之助は本舞台を隠退していた間にも、江戸屋敷の座敷芝居では、元禄十三〜十五年に三回薄雪役を演じていた。
政之助の当たり役となった薄雪像が土佐少掾の『薄雪』に投影され、似せ若衆の趣向なども、歌舞伎の演技を写した可能性が考えられる。次第に歌舞伎摂取の傾向を強める土佐少掾正本の検証は、元禄歌舞伎の具体像を結ぶことにもつながると考えている。
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其角の作意を凝らした技巧的な作風は、しばしば其角の都会的で伊達を好む性格に関連づけて説明されてきた。本発表では、そうした蕉門内でも異彩を放つ其角の作風を、不易流行観の特殊性という観点から考察する。
其角編『末若葉』の自跋が、其角が「流行」の風におし移らないことを非難した去来の「贈其角先生書」を改変して体裁を整えたものであることは、既に山下一海氏によって指摘されている。其角の加筆は随所に及ぶが、中で去来が不易流行の理念を説いた部分に関する加筆には、敢えて「流行」に議論が及ぶことを避けようとする其角の意図があらわれている。其角に「不易」即「流行」という理解があったことは『雑談集』や『猿蓑』序の記述からうかがわれるが、不易流行の根本を「風雅の誠」ではなく「作者の誠」におく点で、去来や土芳らの理解と明らかに異なっている。其角の不易流行観には、変風としての「流行」の意識は薄く、其角の追求した俳諧の新しみは、一句一句の表現の上に表れる新しみの総体としてとらえられる。「作者の誠」の尊重と一句における新しみの重視という二つの理念のもと、「軽み」の流れにある蕉門において一句のおもしろみを追求する自己の風を貫き続けた其角の態度は、去来らの目に「流行」に反すると映ったのである。
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文化六年(一八〇九)十二月、都講として廉塾にやってきた頼山陽に菅茶山は自らの詩集『黄葉夕陽村舎詩』前編の校訂を一任した。刊行された詩集は「尽く余(山陽)の選ぶ所に従ふ」(『黄葉夕陽村舎詩』遺稿序)ものであったわけだが、山陽が具体的にはどの様にその編纂に関与していたかは詳らかでない。
本発表では、公刊直前の草稿として特に資料的価値の高いと判断されるにもかかわらずこれまで言及されてこなかった、広島県立歴史博物館所蔵『黄葉夕陽村舎詩』草稿(前編巻一)に見える山陽の書き入れを手掛かりにして、山陽が採った編纂方針の一斑を明らかにし、刊本の成立事情を考察する。
茶山三十五歳以前の作を収録した前編巻一には、幕府などの悪政を諷喩した作品が比較的多く見えるが、草稿にはかかる当局の逆鱗に触れかねない作品が版本の数倍も収められている。公刊を前にして巧妙に削除されたこれらの詩には、「忌諱に触れん」などの注意を促す山陽の書き入れが必ず附されていることは、新知見といえよう。
茶山の批判は、主に田沼意次とそれに迎合する福山藩に加えられているが、後年福山藩から禄を食むことになった茶山としては、たといそれが三十年も前の出来事であるにせよ、主君への批判を公にすることは慎むべきであった。そうした配慮が、病的ともいえる鋭い神経が政治的統制についても充分働いていたと思しい頼山陽によってなされたということは、茶山及び山陽研究に新たな光を照射するものと思われる。
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日本の『伽婢子』、朝鮮の『金鰲新話』が、『剪灯新話』の翻案作であることはよく知られているが、これにベトナムの翻案作『伝奇漫録』(16世紀前半)を加えることにより、アジア漢字文化圏の中における『剪灯新話』の伝播と受容の諸相がより明らかになるはずである。
今回の発表では、その比較研究の第一歩として、「愛卿伝」に基づく、『伽婢子』「遊女宮木野」、『金鰲新話』「李生窺墻伝」、『伝奇漫録』「南昌女子録」の三作品を取り挙げ、各国における女性の貞節観の異同を明らかにしていきたいと思う。
たとえば、「愛卿伝」で「夫に対する妻の貞節」とみえるものが実は「主君に対する臣下の忠節」に繋がるものであり、その意味では、政治批判的意図が込められた作品といえるのに対し、そうした政治批判的な意図は、各翻案作品では削除され、悲しく悲劇的な物語としてのみ描かれている。が、その中でも、「李生窺墻伝」と「遊女宮木野」では現実を「憂き世」として考える点で共通する。もっとも、両者の「憂き世」観の根本にあるものは、「遊女宮木野」が仏教的なものであるのに対し、「李生窺墻伝」は儒教的なものと考えられる。その一方、「南昌女子録」では、妻を死に至らしめた夫の疑い深さが批判され、男性中心的な儒教的考え方が主張されている。この他、「愛卿伝」末尾の転生譚を「李生窺墻伝」「南昌女子録」が削除したことの意味についても考察していきたい。
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一五九二年(文禄元)から一五九八年(慶長三)の七年間にかけて展開された壬辰倭乱(文禄慶長の役)は、近世の文化・文学に大きな影響を及ぼした。壬辰倭乱を題材とした一連の作品群を指す「朝鮮軍記物」の意義は、これが外国文学との交流によって展開・成長したことにある。近世文学の形成・発展における東アジア文学、特に中国文学の影響に関しては数多くの先行研究がある。しかし、朝鮮軍記物の場合に特徴的なことは、中国文学のみならず、朝鮮朝韓国の文学の影響をも見つけることができることである。今までの先行研究は、中国文学の場合とは対照的に、韓国文学の近世文学への影響は一時的・制限的であったとするが、朝鮮軍記物の場合、韓国文学はその展開において持続的な影響を及ぼし、しかも中国文学の影響とも連動していく様相を示していて、近世文学の中で異彩を発している。
このような認識に基づき、本発表では、壬辰倭乱のことを記した韓国の『懲リ録』を取り上げ、本作品が朝鮮軍記物に及ぼした影響を検討する。最初に、韓国における『懲リ録』の成立、及び『異称日本伝』・和刻板『懲リ録』による日本への紹介の経緯を検討する。その後、一七〇五年(宝暦二)に刊行された『朝鮮軍記大全』・『朝鮮太平記』における『懲リ録』の利用の実態を究明し、『絵本朝鮮軍記』・『絵本太閤記』等の絵本読本に至って変容していく過程を追跡する。
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『板倉政要』は巻一〜五の裁判法令集と巻六〜八及び追加巻九・十の裁判説話をもつ全十巻本が所謂「正編」として最もよく知られる。巻六以降の裁判説話集が読み物として親しまれ、浮世草子等の後続の日本の「比事物」に与えた影響は大きい。総じてパターン化した所司代礼讃の「語りの型」や古今の典拠との関連が指摘される説話であるが、当時の判例集としての実用的利用の視点や、素材である「近世初期の京都」の事件の実録性の要素も評価されている。
国会図書館蔵本や東北大学附属図書館蔵本等にその「後編」「続編」と銘打たれた裁判説話集の諸本が存在し、「正編」にも様々な異同がある。先行研究の指摘を踏まえた調査より、それぞれの諸本は『板倉政要』の「正編」との重複話や近世初期事件話的様相のみられる「続編」系列の諸本と、仮名草子や浮世草子等の先行著名作品の剽窃色の濃い「後編」系列の諸本とに大まかに整理できる。本発表ではその他にも散見する後補的説話の例、他作品との関連の可能性や性質の相違点の例なども加え、「正編」「続編」さらに浮世草子等をも取り込んだ「後編」が発生する流れの見通しの中で本文内容の問題点を指摘し、改めて『板倉政要』という虚構の「説話」作品が伝写されつつ変容する意味についても考察を試みたい。