平成17年度秋季大会発表要旨

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1. 嵯峨本『伊勢物語』の活字と組版

奈良女子大学

鈴木広光

角倉素庵の開版にかかる嵯峨本については、和田維四郎、川瀬一馬両氏の先駆的業績以来、数多くの研究蓄積があり、主に光悦との関わりからその文化史的意義が論じられてきた。また近年、林進氏によって嵯峨本所用活字の版下作者を素庵とする説が提起されるなど、従来定説とされてきた事柄を見直そうとする機運が高まりつつある。しかし、印刷の側からみると、木活字や組版用器具が現存していないなどの諸事情から、活字制作から組版、印刷にいたる一連の工程についてはいまだ多くの事柄が解明されていない。

そこで発表者は、近畿大学のご厚意により、同大学中央図書館所蔵の『伊勢物語』(小汀文庫旧蔵)を高精度のデジタル画像におさめ、コンピュータ上で同書における版面の精査および印出字の悉皆調査を行なった。本書は川瀬一馬氏の分類にいう第一種(慶長十三年初刊)の(イ)版に属するものであり、この基礎作業は異版の多い嵯峨本『伊勢物語』の印刷のあり方をさぐる上で、有益であろうと考える。

本発表はこの調査によって明らかになった、近畿大学中央図書館所蔵本における活字コマの総数および活字の使用状況、活字コマの寸法規格および制作方法の一端、組版方法などについて報告し、あわせてひらがな交じり文の古活字版における組版のあり方についてひとつの見通しを与えようとするものである。


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2. 最後の浄瑠璃本板元・加島屋竹中清助について

早稲田大学21世紀COE客員講師

神津武男

最後の浄瑠璃本板元・加島屋竹中清助の活動について述べる。

竹中清助は、明治十六年(一八八三)に開業し、昭和九年(一九三四)ごろに廃業した。近代の板元であるので、厳密には近世文学の範囲外であるかも知れない。しかし近世期に大坂・京都・江戸で開板された浄瑠璃本(通し本。いわゆる丸本)の板木は、この板元によって集積され、昭和十年(一九三五)四月に、同店から天理大学附属天理図書館へ譲渡され、こんにちに伝えられた。天理図書館の浄瑠璃本板木群の成立過程に、竹中清助がいかに関わったのかを明らかにしたい。

竹中家は現在も続いており、その周辺には次の三種の資料、

が残されている。@は学界既知の資料。発表者は、竹中家からBの閲覧を許されたほか、同家の伝承などについて御教示を得た。今回、ABにより、竹中清助に二代あったこと、従来知られた「唐物町四丁目三番屋敷」とは別の住所地に店を構えた時期があったこと、が知られた。そもそも天理図書館へ譲渡されるについては、二代清助の子息と天理教真柱中山正善氏との交友関係があったという。このほか、東京支店の存在や、竹中清助刊行本の地方取次店などについて、まとめておきたい。

あわせて竹中清助に板木を譲渡し、廃業して行った大坂の板元たちについても、報告したい。


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3. 板木のありか

奈良大学

永井一彰

ここ十年ほどの間に、私は近世期の京都で商業出版に使用されていた約七千枚の板木を見る機会に恵まれた。保存されていた場所は、近世以来の本屋をはじめ、寺院・木工店・印章店などさまざまである。竹苞書楼・藤井文政堂といった近世以来の本屋に残る板木は、明治中・後期に近世の出版機構が崩壊した後もその場所に留まっただけのことで、さほど異とするに当たらない。が、木工店から『おくのほそ道』の、佛光寺から『因果物語』や『撰集抄』の板木が出て来たりすると、「この板木はもともとどこにあったのか」という疑問が生まれる。結果、私は版本やら文書やら本屋仲間の記録やらを照らし合わせて「もとのありか」を探っていくことになるのだが、その過程で必ずといってよいほどぶつかるのが、板木の分割所有という問題である。本屋仲間の記録や板木売買文書などを見ていると、京都では既に元禄ごろには板木を分割所有するのが常態化していた形跡があり、その傾向は幕末・明治に至って一層顕著になって行った。京都に限らず近世の出版を考える時、「板木のありか」は外せない視点であると考えられる。特に相版物を扱う際にはこの視点が欠かせない。今回の発表では、平成十一年に京都の印章店から出てきた『奥細道菅菰抄』の板木一枚を手掛かりに、この書の版元である橘屋治兵衛・井筒屋庄兵衛の板木分割所有の有様を、天明の京都大火における両書肆の罹災状況なども踏まえつつ考えてみたい。


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4. 「吉備津の釜」試論
  ― 和歌・俳諧の連想語に注目して ―

筑波大学(院)

金京姫

従来、『雨月物語』第六話「吉備津の釜」については、多くの典拠研究が行われてきているものの、未だに解かれていないいくつかの疑問点も存在している。本発表では、磯良の言葉に繰り返し「恨み」が語られていることに着目し、本話を磯良の物語として読み直してみると共に、本話の中に和歌・俳諧的連想が生かされていることに注目することで、それらの疑問点のいくつかを解明することを試みたい。

まず、女主人公の「磯良」という名であるが、すでに先学によって、『八幡愚童訓』、『太平記』、謡曲「香椎」、『本朝神社考』などに見える醜い風貌を持った海神の名であることが指摘されているが、この命名の背後には、「恨み」に「浦見」が掛けられており、そして「浦」からは「磯」が連想されたと言えるのではないだろうか。また、磯良に殺される正太郎と袖の出身地として、「播磨」、「鞆の津」などの土地が設定されているが、これらの地名も「恨み」と結びつくものであることが和歌の用例や俳諧の連想語などから明らかである。

さらに、最後の復讐の場面において、軒端に男の髻ばかりがかかっていたとされていることの意味も、和歌・俳諧における「恨み」の語の連想関係によって導き出せるものであることを指摘したい。


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5. 秋成の土佐日記注釈と「海賊」

総合研究大学院大学(院)

一戸渉

『春雨物語』所収「海賊」はその冒頭より貫之を主語として語り始め、周知の如く土佐日記に拠った一篇である。本作の典拠については土佐日記は無論のこと、先学により幾つかのものが挙げられているが、一方で土佐日記と本作との関係については、それが如何にもあからさまである事もあってか、改めては論じられないままにある。のみならず本作と秋成の土佐日記注釈との関わりについては従来殆ど注意を向けられて来なかった。

本発表では数系統が存する宇万伎・秋成の土佐日記注釈書の内、特に享和元年に秋成が宇万伎追善のために浄書したとの奥書を持つ天理大学附属図書館蔵本等をはじめとする『土佐日記解』の諸伝本について、まずその成立事情を検証する。その上で土佐日記本文「かいそくむくひせんといふなる事」(一月二十一日)と「海賊」本文「海賊うらみありて追くと云」(富岡本)との、「むくひ」から「うらみ」への読み換えに着目し、それが季吟『土佐日記抄』から縣居門における注釈へと至る解釈の変遷に相即したものであることを指摘する。更にこの「むくひ」一語への語注が本作の海賊(文屋秋津)の造形において重要な位置を占めていることを、秋成が単に真淵以来の説である海賊取締りへの「うらみ」とするのではなく、不遇をかこつ学士の「うらみ」として更なる読み換えを行っている点より導出し、秋成の土佐日記注釈が本作の成立に如何なる契機を齎しているのかを明らめる。


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6. 『近世奇跡考』草稿本について

フランス国立極東学院

クリストフ・マルケ

実践女子大学

佐藤悟

山東京伝『近世奇跡考』巻一から巻三の草稿本をパリ装飾美術館付属図書館蔵書から見いだすことができた。

最初に十九世紀末のフランスにおける京伝の受容のあり方について説明をおこない、日本学者エマニュエル・トロンコワ(一八五五―一九一八)が本書を意図的にパリに将来したことを述べたい。

草稿本には多くの切り貼りがみられ、原稿執筆の過程を窺うことができる。さらに具体的には次のようなことが判明する。

これらの事実を通じて『近世奇跡考』について改めて考察を加えてみたい。


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7. 西鶴の構想力
  ― 『西鶴名残の友』巻四の五試論 ―

関西大学(非)

長谷あゆす

西鶴の第五遺稿集『西鶴名残の友』は、実在の俳人が登場する二十七の笑話から成る。それらの諸篇は、西鶴の軽妙な語り口――「はなしの呼吸」が見られる代表作として知られている。だが実は、構想の面においても特筆すべきものがある。

管見によれば、『名残の友』には、俳壇の内部事情に精通した者にのみ理解しえたであろう、巧妙な「笑い」の趣向が組み込まれている。モデルに関する風聞をふまえて本文を読み直すとき、西鶴の描いた「はなし」の世界には、従来の解釈とは異なる新たな意味を見出すことが可能となる。

本発表では、その試みの一つとして、巻四の五「なんともしれぬ京の杉重」の構想を明らかにする。本章は、西鶴と才麿が「明石の俳友(明石御亭主とも)」を訪ね、酒に関する種々の談義を交わす様を描いたものだが、その中には明石藩主松平信之の俤をあてこんだ興味深い趣向が発見できる。

第一に、本章には謡曲「浦島」を下敷きとした趣向が認められるが、それは、信之の明石人丸社に対する格別の庇護から想起されたものだったと考えられる。第二に、本章は、明石御亭主が大徳利「天岩戸」を取り出し「不老酒」を振舞うところで幕を閉じる。この設定が仕組まれたことには、信之が明石人丸社を庇護する事情として〈ある事件〉を懸念していたという噂が関係しているようである。この点について詳しく検討を加え、西鶴の意図した「笑いの仕掛け」が何であったかを考えたい。


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8. 『似我蜂物語』典拠考

立教大学

安原眞琴

『似我蜂物語』は寛文元年頃に刊行された作者未詳の仮名草子である。近年翻刻がなされたが(朝倉治彦編『仮名草子集成 第三三巻』東京堂出版、二〇〇三年)、先行研究は非常に少なく、内容面に関する研究は未だ進んでいるとは言い難い。ただし、約二十箇所にも及ぶ漢籍の引用の大半が、林羅山の『童観鈔』を取材源にしているなど(渡辺守邦『仮名草子の基底』勉誠社、一九八六年)、幾つかの引用文献の典拠は指摘、解明されている。しかしながら、本作品の中核をなす仏教的な言辞にも典拠があること、及びその典拠に関しては、未だ明らかにされていない。そこで本発表で多少の検討を試みたいと思う。

まず、主な典拠が、南北朝期の禅僧抜隊得勝(一三二七―八七)の仮名法語を弟子がまとめた『塩山和泥合水集』であるか否かを検証したい。これについてはかつて多少言及したことがあるが、事典項目の中で触れたのみであり、詳しい検証は省かざるを得なかったため(『日本仏教の文献ガイド』法蔵館、二〇〇一年)、あらためて検討したい。次に、この仮名法語は、五山版以来、近世初期にも古活字版をはじめ整版でも刊行されているが、それゆえ簡便な取材源として安易に利用されたのか、或は作者の思想や思惟方法とも深く係わるのか否かを考察したい。最後に、以上のことをふまえると、雑多な随筆のようにみえる本作品がいかに解釈できるかといった作品論も試みたい。


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9. 近松の時代浄瑠璃に描かれた「執着」「執念」

東京大学(院)

韓京子

本発表では、近松の時代浄瑠璃に描かれた執念・執着に着目し、それが劇の構想や展開にどのように関わっているのかを、時期的な変遷に留意しつつ考察する。

近松は、貞享期の初期作品において、例えば『出世景清』では景清の執念深い復讐心を、『薩摩守忠度』では忠度の「千載集」への入集の執着を描くなど、はやくから登場人物の執念や執着に着目している。宝永期の『用明天王職人鑑』は、女性に注目して浄瑠璃を構成する方法を模索していた時期の作品であり、「やつし」の構想にその主人公諸岩を支える室君の執愛が結び付けられている。また、正徳期の『嫗山姥』にも「やつし」の構想は引き続き用いられるが、以前のように、妻や愛人の献身だけでは事態を打開することが出来ず、「やつし」の主人公は自ら死んで生まれ変わることに解決方法を見出し、結果、執念が転生と結び付くようになる。正徳期後半から享保期には、謀反劇が多く描かれるが、その謀反の執念は、もっぱら蘇生・転生という形で描かれるようになる。

近松は執念を単にその人物の性格を表すだけでなく、「やつし」の構想や、謀反劇における転生・蘇生など、劇の展開に結び付けており、そこでは愛欲や忠義、復讐に執着する人物の姿が極限化されて示されている。


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10. 『松の葉』吾妻浄瑠璃の考察

国士舘大学(非)

梅澤伸子

元禄一六年(一七〇三)に刊行された『松の葉』(秀松軒編)の第四巻には、「吾妻浄瑠璃」の部として、節名を明記した目録と、二一曲の浄瑠璃の詞章二三篇が収録されている。

浅野建二は、『中世近世歌謡集』所収「松の葉」解説において、『松の葉』が第四巻を「吾妻浄瑠璃」の部とした理由として、半太夫節の優位性を挙げている。しかし、半太夫節の優位性のみが、第四巻を「吾妻浄瑠璃」とした理由ではなかろう。確かに第四巻は二一曲中一四曲が半太夫節で占められてはいるが、それが第四巻の収録曲の全てではないからである。

『松の葉』刊行後、これを補うとして、元禄一七年(一七〇四)には『落葉集』が、宝永三年(一七〇六)には『若緑』が刊行されている。この二つの歌謡集においてもやはり、浄瑠璃の詞章が収録されているが、その収録の仕方は微妙に異なっている。それらは『落葉集』においては第六巻に「古今新左衛門節唱歌」と併せて「三ケの津浄瑠璃作者附」として、『若緑』においては第五巻に「半太夫節」として、収録されているのである。この相違の背後にはこれら三歌謡集の編集意図の相違がある。『落葉集』は芝居歌を基底とした流行歌に、『若緑』は法師唄にと『松の葉』の補い方に相違はあるものの、両者とも収録の視点が、歌の詞章の吟味よりは曲そのものにあるのに対し、『松の葉』の編集は詞章の吟味により重点を置いている。

本発表では三歌謡集収録の浄瑠璃の詞章の分析を基に、その選曲の視点の相違を考察し、『松の葉』の編集意図の一環を明らかにする。


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11. 古浄瑠璃の慣用章句について
  ― 談義俗講と室町物語にわたる ―

花園大学

浜田啓介

古浄瑠璃(説経を含む)では、「りうていこがれ泣たまふ」「ものによく/\くたとふれば」などの七五調の慣用章句が多数用いられている。これらの慣用句は、古浄瑠璃世界で案出され継承されたものかとも考えられようが、それには問題がある。古浄瑠璃慣用句の多くは、室町時代物語の文章表現にそのまま見えるからである。物語が浄瑠璃を採用したのでもなくその逆でもないであろう。

本論の結論として述べる処は、それらの辞句は、先立って、唱導談義の高座における慣用的表現として流布し、巷に「存在」し、人々が脳裡に思い描くことができ、物語詞章作者らの身に「所有」されている状況にあり、その事は、古浄瑠璃詞章作者においても同様であったとする。主たる論拠として、『眞宗史料集成』所収の中世談義本『親鸞上人由来』を用いる。

右の資料により、具体的に言及する慣用章句は、「いとま申してさらばとて」「消すがごとくに失せ給ふ」「あはれをとゞめしは……にてとゞめたり」「消え入るやうにぞなき給ふ」「〜此由見るよりも」「中/\たとへんかたもなし」「申はかりはなかりけり」「〜なのめに思食し」「いそがせ給へば程もなく」「ものによく/\喩ふれば」「感ぜぬ人はなかりけり」等である。

室町時代や古浄瑠璃の詞章作者は、創作執筆者である以上に、言語選択・言語充填の行為者と言うべきであったろう。


(C)日本近世文学会